28話 生涯を共に
午後の陽射しが、西の空に向かって傾き始めたころだった。
サロンの窓辺には透き通るようなレースのカーテンが風にたゆたう。その向こうに広がる庭園では、ミントとラベンダーの香りが微かに混ざり、空気の層にさざ波のような静けさを運んでいた。
この場所はいつも、昼間は賑やかだ。美容に興味のある貴婦人たちの話し声、香水瓶を開ける小さな音、筆先がパレットを滑る音。けれど今日は、まるで世界そのものが息をひそめているかのように、静まり返っていた。
「……誰もいないなんて、めずらしいわね」
私の声も、どこか囁くように小さくなった。そっとカップをソーサーに戻すと、揺れる紅茶の水面に、向かいに座るカミルの横顔が淡く映った。
「たまには、こんな日もいいでしょう。忙しく動き回ってばかりじゃ、疲れてしまうよ」
彼は静かに答えた。やわらかい声音に、何か決意のような響きが混ざっていた。
「それに、今日は……」
カミルはゆっくりと立ち上がり、テーブル越しに手を伸ばして、カーテンの片端を引き寄せた。
透き通るレースがわずかに閉じられると、サロンは一瞬にして秘密の温室のように変わった。外界と断絶された、香りと温もりに満ちた柔らかな空間。
「君に、伝えたいことがあるんだ」
その言葉と同時に、彼は私の目の前に、静かに跪いた。
空気がざわめいた。
いや、私の鼓動の音だけが異様に大きくなって、耳の奥で反響しているだけだったのかもしれない。
「……カミル?」
指が震える。ティーカップの取っ手に触れていた手を、そっと膝の上に戻す。
目の前の彼の瞳には、私のすべてが映っていた。過去も、努力も、挫折も、孤独も。
それでも、その目は、まるで宝石のように澄んでいた。
「君が、エリザベートが、ここまで歩いてきた道を……僕はずっと見ていた」
彼の声は低く、けれどひとつひとつの言葉が重みを持って胸に落ちてくる。
「君は、たくさん傷ついてきたね。外見も、立場も、誤解された言動も。だけど君は、それを力に変えてここまで来た」
私は、言葉を失っていた。
夕暮れの光が、サロンをゆっくりと金色に染めていく。
「僕は医師として、ただ傍にいた。でも、もうそれだけでは足りない。君と歩きたい。君の隣に立ちたい。……エリザベート。君と、生涯を共にしたい」
その手に握られた小さな箱が、そっと開かれる。
銀の指輪。中心に埋め込まれたエメラルドが、午後の陽を受けて水面のように輝いた。
「僕と結婚してほしい」
しん、と世界が静まり返る。心臓の鼓動だけが、やけに耳につく。
「……私なんかで、……いいの?」
「“なんか”じゃない。強さも、弱さも持っている君だからこそ、僕は惹かれたんだよ」
彼の言葉に、胸の奥がじんと熱を帯びる。
過去の私――肥り、醜く、陰で笑われ続けてきた私。否定の言葉に傷つき、誰にも“選ばれる”ことなどないと諦めていた。
でも――こんなにも真っ直ぐに、ありのままの私を肯定してくれる人がいるのなら。
「……いいの?私、頑固なところもあるし、我儘なのよ……」
「君の可愛い我儘なら、いくらでも聞いていたい」
その言葉が、心の一番奥に染み込んでいく。
「……はい。私でよければ、喜んで」
涙がこぼれそうになるのを、指先でそっと拭った。
けれど、それは悲しみでも、後悔でもない。どこまでも透明で、未来へと続いていく、幸せの涙だった。
彼が私の左手に指輪をはめる。ぴたりと吸い付くように馴染んだそれに、そっと触れながら私は微笑んだ。
明日は19時10分に更新予定!残すはルチア視点の話と後日談になります。
面白いと思っていただけたら、☆マークから評価・お気に入り登録をしていただけると嬉しいです。




