25話 夜会に舞う、美の革命II
舞踏会での騒動がようやく鎮まり、場は張り詰めたような静けさに包まれていた。人々は息を呑み、何かが起こるのを待っている。そんな空気を破るように、絹のように滑らかな旋律が、楽師たちの手でふたたび奏でられ始めた。
その音に誘われるように、ゆったりとした足音がフロアに響く。
「……エリザベート」
呼びかける声は柔らかく、けれどその場にいた誰もが振り返るほどに響いた。
アルフォンス殿下が、ゆるやかな笑みを浮かべてこちらへ歩み出てくる。まるで、先ほどまでの出来事が些細な戯れに過ぎなかったかのように。彼は一礼の所作もなく、私の前で立ち止まり、片手を差し出した。
「次の曲こそ……一緒に踊ってくれるか?」
まるで最初から何事もなかったように。配慮のない、あまりに無神経な口調だった。
先ほどの騒ぎの最中、殿下は一言も発さなかった。誰よりも高い立場にありながら、誰よりも静観していた殿下。彼の瞳には、後悔も、戸惑いもない。ただ、理想通りに舞踏会を締めくくろうとする若さと甘さが、浮いていた。
私は差し出された手を見つめる。
そして小さく、でもはっきりと首を振った。
「申し訳ありません、殿下。私は、貴方とは踊れません」
その言葉に、殿下の眉がわずかに動いた。
「……え?何故?ほら、あんなこと……ルチアの誤解だったって、みんな気づいてるさ。お前の潔白も分かっただろう?」
その声には、どこか無邪気な……いや、あまりに軽い響きがあった。まるで、そう口にすればすべてが元通りになると信じているかのような、甘えと慢心の混ざった声。
私は深く息を吸い、静かに言葉を重ねた。
「……殿下。先ほどまでのやり取り、確かに誤解は解かれました。ですが――」
私は一歩下がり、丁寧に、そして凛とした声で続けた。
「誤解が渦巻くその只中で、殿下は沈黙を貫かれた。私は断罪される立場にあったというのに、貴方は何も言わなかった。婚約者である私を守るどころか、傍観者として立ち尽くしておられた」
「それは……軽々しく口を挟むべきじゃなかったと思っただけで……」
「ええ。ご判断はご自由です。ですが、貴方は私の婚約者であるはずでした。私にとって、“守ってくれるはずの存在”だったのです」
殿下の顔が少し強ばる。
「だから……今こうして、踊りに誘って……」
「……殿下」
低く落ち着いた声には、怒りよりも、確かな決意が宿る。
「今だけの話ではありませんの。殿下は、これまでの私を侮り続けてこられました。醜いと嘲り、笑い者にし、周囲の悪意に目をつぶってきた。贈り物のひとつも、ねぎらいの言葉のひとつもなく。何より……私は“婚約者”であるのに、殿下の心は別の方へと向いていた」
私の視線が、ゆるやかにルチアを捉える。彼女はその場に釘付けにされたように動けず、顔を伏せ、手に持った扇を震える指で強く握りしめていた。
私は殿下を振り返り、高らかに告げる。
「それゆえ、私、エリザベート・グラシエルは、貴殿との婚約を――本日をもって破棄させていただきます」
その瞬間、会場にいたすべての人々が息を呑んだ。
アルフォンス殿下が何かを言おうとわずかに唇を震わせるが、喉の奥でつかえた言葉は決して形にならなかった。予期せぬ私の反旗に彼はただ茫然と立ち尽くす。
その姿を、私は静かに見つめていた。感情は、もうそこにはなかった。ただ、確信と覚悟があった。怒りも、悲しみも、憧れさえも。残されていたのは、ただ確かな確信と、未来への覚悟だけだった。
この場にいるすべての人が知っている。殿下がいかに私を嘲り、冷遇し、婚約者という立場に胡坐をかいてきたか。どれだけの機会を見過ごし、どれだけの痛みを他人事としてきたか。
そしてその代償が、いまようやく、形となって返されたということも――。
独断だったけれど、王族も殿下の有責での婚約破棄を認めざる得ないだろう。
私はゆっくりと一礼し、絹のドレスが床をなぞるように音を立てた。華やかな夜会の中心で、私は静かに、そして毅然と背を向ける。
殿下のもとから去ること、それはかつての自分を棄てること。
とうとう婚約破棄を言えた――高鳴る心臓の鼓動は、まるで解き放たれた鳥の羽音のようだ。
殿下の前から離れ、私をずっと睨んでいるルチアの方へと歩を進めた。
白百合のように純白のドレスを纏い、まるで聖女のように美しい彼女の姿は、今も多くの人々の視線を集めていた。だが、その美貌に隠された表情は、どこか焦りを孕んでいる。
きりりと引き結ばれた唇。まつげの奥で揺れる微細な不安の色。「計画が狂わされた」ことへの焦りと、想定外の展開に足元を掬われた少女の“焦燥”が色濃く滲んでいた。
「……まさか、自分から婚約を破棄なさるなんて。そんなこと、夢にも思いませんでしたわ」
ようやく搾り出された声には、乾いた笑みとわずかな嘲りが混ざっていた。
表情こそ気丈に保たれていたが、声の奥底には、動揺が確かに見え隠れしていた。
「殿下との婚約は、貴族令嬢として最高の立場。あなたは、それを自ら捨てたことになるのよ?」
ああ──
この人は、私が泣き喚いてすがりつく姿を、心のどこかで期待していたのだ。殿下に見捨てられ、身を引き裂かれた令嬢の末路を、王妃の座を手にするための踏み台にしたかったのだろう。
私は臆することなく言葉を返す。
「ええ、わかってるわ。でも、立場や肩書きのために自分を殺す人生を、私はもう望まないの」
私は柔らかく微笑んだ。だがその視線は、ルチアの仮面の奥をまっすぐに見据えていた。
「それにね。あなたと王子、案外お似合いだと思うの」
「なっ……?」
微かに見開かれたルチアの瞳。感情が一瞬、表情を覆った。
「あなたは、彼の王子という肩書きと容姿だけを見てるでしょう。彼の内面に、どれだけ目を向けているかしら?」
「……私は、陛下のご子息として相応しい振る舞いを、当然のように求めて――」
「ええ。まさにそれが、あなたと彼がお似合いの理由よ」
私は一歩踏み出し、声を潜めるようにして続ける。
「王子もまた、私の見た目ばかりを気にしていたわ。太っているから、醜いから、婚約者として恥ずかしいと。中身には目もくれなかった。努力も、誇りも、想いも」
私はさらに声を潜め、舞台の幕裏で密やかに語るように言葉を紡ぐ。
「そういう意味で──あなたたちは、本当にお似合い。どちらも、他人の“表面”にしか興味がない」
周囲には聞こえないよう、穏やかな口調のまま、それでも確かな意志を込めて告げた。
「あなたが殿下を欲したのは、王子という名と立場と美しい容姿。アルフォンスという人間ではなくて。殿下があなたを選んだのも、美しい外見の女性を手に入れたかっただけ。一度でも、本当のあなたを見ようとしたかしら?」
ルチアの扇が、指先でわずかに震えた。紅を引いた唇が開くが、返す言葉はない。
殿下はルチアの容姿を褒めても、内面に興味は持っていなかった。彼女の趣味も、信念も、どんな夢を持っているかも。そうした問いかけをしたことさえ、私は見たことがなかった。
「だから、安心して。私はもう、そんな上辺の関係に縛られない。あなたたちは美しいもの同士で、どうぞ、理想の舞台を演じて」
私は、深く頭を下げた。
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