SIDEカミル
風が、そっと木々の葉を揺らしていた。
春の訪れを告げる淡い陽光が庭園をやさしく包み込み、咲き誇る花々が光を浴びて静かに揺れている。
その花々が花々が織りなす色彩の海のなか、小さな影がひとつ。
妹が、そこにいた。
リリィは白い日傘を傾けながら、花壇の前にそっと腰を下ろしている。かつて乾ききっていた彼女の髪は、今や太陽の光を受けて、柔らかな艶を帯びていた。こけていた頬にはほんのりと紅が差し、長いまつ毛の陰にある瞳は、小さな何かをじっと見つめている。
その視線の先にあったのは、咲き始めたばかりのスミレの花。
そっと指先を伸ばすその手は、以前のように骨ばったままではない。まだ細くはあるが、温もりと血の気を取り戻しつつあった。
「……すごいな」
胸の奥で、僕はひそかに呟いた。
リリィが体調を崩し始めてからというもの、食事をとることすら苦痛そうだった。口にしては吐き、また自己嫌悪に沈む――その繰り返し。
絶食は危険だと、何度も訴えた。必死に止めようとした。だが、僕では止められなかった。
けれど──あの人が現れてから、風向きが変わった。
エリザベート・グラシエル。
リリィと同じように、美しさに縛られ、苦しんできた女性。
彼女はリリィの苦しみに真正面から向き合った。憐れむことも、拒絶することもなく、まるでかつての自分自身と重ねるように、ためらいなくその手を差し出してくれた。
食事の時間にはそばに座り、ひと口でも食べられたなら手を取り褒めた。
リリィが涙を流すときは、何も言わずにその涙を受け止めた。
──あれから、数週間。
リリィの様子は、ゆっくりと、けれど確かに変わっていった。
光を拒むように閉ざされていたあの部屋には、今では朝の陽差しと風の流れが戻っている。食事も、少しずつではあるが口にできるようになり、血色も取り戻しつつある。
やせ細り、生命力すら失っていたあの姿は、ようやく過去のものとなりつつあった。
少し前まで、彼女は人と目を合わせることすらできなかった。
うつむき、声を押し殺し、存在を消そうとするように肩を震わせていた。
けれど今では、テーブルの前に座り、自らの手でスプーンを持ち、意志をもって食事をしている。
まだ身体は細く、頬のこけた面影も残っている。
けれど、その瞳には――たしかに、微かな光が宿っていた。
そして今、リリィは――前を向こうとしている。
「……兄様」
振り返ったリリィが、僕の名を呼んだ。その額にはかすかな汗が滲み、日傘の陰からのぞく瞳がまっすぐに僕を見つめていた。
「見て、この花……春になると、一番に咲くんだって。エリザベート様が教えてくれたの」
そう言って、リリィはスミレにそっと指を添えた。
「……ああ。綺麗だな」
僕の言葉に、リリィは少しだけ頬を緩めた。
ふいに、花壇の向こうから足音が近づいてくる。砂利を踏むやさしい音とともに、鈴のような声が風に乗って届いた。
「まあ、二人とも、ここにいたのね」
振り返ると、花壇の向こうからエリザベートが歩いてきていた。ブロンドの髪が陽光を受けて輝き、桃色のドレスの裾が風に揺れている。胸元には薄紫のリボンがひときわ可憐に結ばれていた。
「エリザベート様……!」
リリィの声がぱっと明るくなる。僕も思わず目を細めた。柔らかな笑みを浮かべて歩いてくる彼女の姿は、まるでこの春の庭園そのもののように、眩しかった。
「今日は本当にいい天気ね。お散歩日和だわ」
「うん、まさにそんな日だね」
僕がそう返すと、エリザベートは帽子のつばを指で軽く押さえながら、にこりと笑った。
「リリィ、具合は?お外の空気、冷たくなかったかしら」
「ぜんぜん、大丈夫です。むしろ気持ちよくて……こんなふうに春のにおいを感じるの、久しぶりなんです」
リリィはそう言って、エリザベートにスミレの花を差し出した。
「このスミレ、エリザベート様が教えてくれた通り、一番に咲いてました」
「まあ、本当に。……ちゃんと覚えててくれたのね。嬉しいわ」
エリザベートはひざを折ってリリィと視線を合わせ、小さなスミレにそっと目を落とした。その横顔は春の光を浴びて、やさしくも誇らしげに輝いていた。
「受け取ってください!」
「あら、いいの?」
「もちろんです! エリザベート様にぜひ、と思ってました」
エリザベートは優雅に手を伸ばし、小さなスミレを指先で受け取った。細くしなやかな指が、まるで壊れ物を扱うように花を包みこむ。その仕草に、僕は思わず息を呑む。どこまでも繊細で、どこまでも美しい。
彼女はそのまま、スミレを顔の近くにそっと寄せた。鼻先で軽く香りを吸い込むと、まぶたをゆっくり閉じる。
「……ほんのり甘くて、春の匂い。ね、リリィも、そう思った?」
「はい。なんだか、懐かしいような匂いでした」
「そうね。私も、小さい頃からこの花を見ると、春が来たって実感するの。やっと冬が終わって、新しい季節が始まる……そんな予感がするのよ」
そっと目を開けたエリザベートの瞳は、どこか遠くを見つめていた。けれど次の瞬間、彼女はまたリリィに微笑みを向け、花を大切そうに胸元へと留める。
「この花、今日の思い出にいただくわ。ありがとう、リリィ様」
「……えへへ、どういたしまして」
リリィの笑顔が、まるで陽だまりそのもののようにやわらかく広がった。そんなふたりを見ていると、僕の胸の奥にも、暖かい何かが灯るのを感じた。
スミレの花は小さくて、儚くて、それでも力強く春を告げる。
きっと、リリィもそんなふうに……ゆっくりと、自分の花を咲かせていくのだろう。
エリザベートという、春のような人に手を引かれて。
リリィはもう、冬の闇には戻らない。
──相談してよかった。
胸の奥から、そう思った。エリザベートがいてくれたから、リリィは今ここにいる。そして自分も、もう一人で悩まなくてよかったのだ。
風に揺れる花々のなか、静かに立つ彼女の横顔を見つめながら、静かに微笑む。美しさのなかに秘められた強さと優しさに、ふいに胸が熱くなる。
エリザベート・グラシエル──この令嬢の存在を、どれほど自分がいとおしく思っているのか、そのとき気づいてしまった。
今日は続けて、きりの良いところまで――3話更新!続きは20時10分と21時10分に!
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