20話 恋の自覚
「……はあ」
思わず漏れた溜息は、思考の混乱をどうにか吐き出そうとするようなものだった。
けれど、思考はどうしても、さきほどの彼──ジャン・クラウゼの言葉に引き戻されてしまう。
『君の肉体は、実に素晴らしい』
筋肉を、そう、筋肉を褒められた。まるで芸術品を賞賛するような口調で。彼の目には一片の下心もなく、むしろ清冽なまでに純粋だった。真っ直ぐで、濁りのない敬意に満ちたまなざし。
けれど。
……それは、本当に「好意」なのかしら?
かつての私は、彼に見向きもされなかった。脂肪に覆われた身体、覇気のない顔、鈍く濁った瞳。自分ですら目を逸らしたくなるような外見だったから、無理もないとは思う。
彼はあくまで殿下の婚約者に対する礼儀を守るように、形式的な距離を保っていた。その接し方は、冷たくはないが、どこかぞんざいな扱いだった。
でも、今は違う。
努力して、変わって、必死に鍛え上げたこの身体に、彼は「美しい」と言った。あのジャン・クラウゼが。乙女ゲーム本編では殿下の好敵手として人気を博し、鋭い洞察と冷静な判断で知られる彼が。まさか、そんな人から視線を向けられる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「以前の君は……身体が弛んでいた印象だったが、今はまるで別人だな」
まるで生まれ変わったようだと、彼は言った。きっと褒め言葉なのだろう。
鍛錬の成果を認めてもらえたこと自体は、たしかに嬉しかった。
けれど、その言葉に――私は、どうしても引っかかってしまう。
“以前の私”は、彼にとって「否定すべき存在」だったのだろうか。
痩せる前の私には、価値などなかったのだろうか。
ジャンの視線は、確かに熱を帯びていた。
だがそれは、整った腹筋や引き締まった二の腕といった「結果」に対しての熱であって、その背後にある、無様で、泣きたくなるほど惨めで、それでも前に進もうと足掻いた私自身は、見てはいなかった。
私はそっと胸に手を当てる。
彼に「美しい」と言われたあの瞬間を思い出してみても、そこには熱も疼きもなかった。
確かに嬉しかった。顔も真っ赤になってしまったし。でも、それだけ。
心が震えるような想いとは、決定的に違っていた。
ふと視線を横にやれば、そこにはカミルの姿があった。
カミルなら――。
たとえば、不意に距離を詰めてきて、優しく名前を呼ばれるだけで。
たとえば、少し困ったように微笑まれただけで。
私の胸は、まるで跳ねるように高鳴って、どうしようもなくなる。
頬が熱くなって、逃げ出したくなって、それでも目をそらせなくなる。
……なんで、こんなに違うのかしら。
ジャンはまっすぐだ。称賛も、好意も、疑いようのない本物。
それでも私の鼓動を乱すのは、そばで見守ってくれるカミルの、静かなまなざしだけだった。
ジャン様は、私の“今”を褒めてくれるけど、“過去”も“努力”も知らない人には、本当の私を見ていない気がしてしまう。
カミルは、違う。
変わろうともがき、転び、泣き、また立ち上がった私のすべてを、最初からずっと見てくれていた。醜い頃の私を、見捨てずに。
だから私は、彼の前では弱音を吐けるし、助けてほしいと素直に言える。
私は……、カミルに恋をしてるのかしら。
静かに息を吐き出す。
心のどこかで、否定の言葉を探そうとするけれど、それはもう、口にするまでもなく無意味だった。
「……エリザベート嬢、さきほどはお二方の会話に割って入ってしまい、すみませんでした」
カミルの声が、静かに私の耳をくすぐる。
優しさのなかに、どこか不安げな響きを含んでいて──私を思ってくれる気持ちが滲んでいる。
私は小さく頷いた。
「ええ……でも、たぶん、ジャン様に悪意があった訳じゃないって、わかってるの。あの人なりに、素直に感じたことを言っただけ。だから……怒るようなことじゃないのよね」
言いながら、自分の言葉がどこか虚しく響くのを感じた。そう理解していても、どうしても、胸の奥がひりつく。
「けれど……“以前の君は身体が弛んでいた”なんて、普通、口にする言葉じゃない」
そう言うカミルの声には、微かに苛立ちが混ざっていた。彼がこうして感情を露わにするのは珍しい。それだけ、私のことを大切に思ってくれているということなのだろう。
私は小さく微笑んだ。
「カミル、ありがとう。……あのとき、庇ってくれて、嬉しかったわ」
彼は少し照れたように目を逸らす。
「僕は、ただ……君が努力してきた日々を、知っているから。外見だけで“変わった”って決めつけられるのは、どうしても我慢ならなかったんです」
その言葉に、心の奥が静かに満たされていく気がした。
「カミルは、変わる前の私も知っているわよね?」
「ええ。よく知っています」
「……あのころの私、嫌いじゃなかった?」
少しだけ、冗談めかして聞いてみた。けれどその奥には、拭いきれない不安が潜んでいた。
彼は驚いたように目を見開き、それからふっと微笑んだ。
「好きかどうかって聞かれたら……たぶん、最初から、好きでしたよ」
静かな声だったけれど、確かに届く言葉だった。
私は思わず息をのんだ。鼓動がひとつ、大きく跳ねる。
「エリザベート嬢は、過去も今も、自分と向き合って前に進もうとする強さを持っていましたから」
彼の目はまっすぐで、揺るぎなかった。優しさと、確信に満ちた光がそこにあった。
私はその視線にしばし何も言えず、ただ見つめ返すことしかできなかった。過去の自分が無価値だったわけではない。そう思わせてくれるこの人が、隣にいてくれることが、たまらなく心強かった。
「……ねえ、カミル」
「はい?」
「縄跳び、してみる?」
「……え?」
私がくすりと笑うと、彼は少しきょとんとし、それから少し照れたように苦笑した。
「体力にはあまり自信がありませんが……エリザベート嬢のお相手なら、喜んで」
私は縄跳びを拾い上げ、にやりと口角を上げた。
「どっちがたくさん跳べるか、勝負よ!」
「はは、お手柔らかにお願いします」
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