18話 新たな攻略キャラ
ユリウスの言葉には、内心少なからず憤りを覚えた。
けど、いまはそれを胸に留めておくことにする。
「無駄な感情に振り回されるほど、私は暇じゃないのよっ」
悔しさは、走って汗に変えてしまえばいい。
朝の冷たい空気が肺の奥に満ちるたび、私の胸が上下し、鼓動が熱を帯びる。
澄み切った空気は氷の刃のように鋭いのに、不思議と心地よい。私は広大な庭園をぐるりと囲む砂利道を、何周目かも忘れるほどに走り込んでいた。
「……はっ、はっ……あと、二周……!」
呼吸は荒く、ふくらはぎは燃えるように痛む。だがこの痛みが、たまらなく愛しい。かつて、肥えて鈍った体では決して味わえなかった快感だった。体重があるのにランニングすると膝を痛めてしまうしね。
「貴族令嬢が運動だなんて、みっともない」と陰口を叩かれた事もあったけれど、今では違う。私の努力を認め、支えてくれる人々がこの屋敷にはいる。だからこそ私は、貴族令嬢にしては異質な装い――ドレスではなく、動きやすいキュロットに巻きスカートという軽装で、胸を張って走り込みができる。
そんな矢先。
「……これは、失礼。朝から随分と精が出るな」
低く、張りのある声。反射的に振り返った私の視界に、黒い外套を風になびかせて立つ男の姿が飛び込んできた。
「き、騎士団長……ジャン・クラウゼ様?」
短く刈られた赤髪、無駄のない引き締まった体躯。騎士としての無駄のない立ち姿は、まるで抜き身の剣のよう。
忘れようにも忘れられない。乙女ゲームの本編では、主人公を守る誠実な騎士として描かれ、そして“悪役令嬢”たる私を断罪する正義の化身として登場した男――その人が、今まさに私の前にいる。
慌てて腰布を引き直し、額に張り付いた前髪を手で押さえる。泥にまみれ、汗に濡れた顔。肩で息をするみっともない姿。そんな自分を彼に見られたと気づいた瞬間、背筋に氷を落とされたような冷たさが走った。
「し、失礼しました。このような姿をお見せするなんて……」
だが、ジャンは微動だにせず、ただ静かに私を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「否。美しいものを見たとき、人は敬意を抱く。それだけだ」
「へ……?」
「私は戦場で無数の兵士と剣を交えた。だが、ここまで均整の取れた筋肉を持つ令嬢は、初めて見る」
……今、なんて?
あまりの衝撃に、思考が一瞬止まる。聞き間違いでなかったら、ジャン・クラウゼは、私のことを“美しい”と、称えたのだ。
「君は己を律し、鍛え上げる意思を持っている。それは剣に勝る誇りだ。……素直に、称賛したい」
頬が、じわりと熱を帯びた。これは運動のせいじゃない。
「いえ、あの、その……私なんて、その……」
しどろもどろに口ごもる私に、ジャンは真っ直ぐなまなざしを向けてきた。その瞳には、冷徹さよりも温かさがあった。騎士としての厳しさの奥に、敬意と優しさが宿っている。それが痛いほど伝わってくる。
「謙遜か?君のような眼差しを、私は知っている。決して折れぬ意思の光だ」
どうして?なぜなの?私は混乱していた。なぜ、ジャンが熱い眼差しに私を見てくるのか。
ゲームの中の彼は、私を裁く立場の人間だったのに――。
「本日は、騎士団の支援金について公爵殿と話をしに参った。だが、その前に……思わぬ収穫があった」
「しゅ、収穫……?」
「君の努力と鍛錬。つい、見惚れてしまった……なんと美しいのだろうと」
頬が、耳が、熱い。
心臓が跳ねる音が、まるで耳の奥で鐘のように鳴っていた。
「う、美しいって……え、あの、ジャン様……?」
さっきから繰り出される言葉が、どれもこれもあまりに真っ直ぐで。
しかもその視線が、妙に真剣で、熱っぽくて。
もしかして、これは、まさか――告白……?
「ま、待ってください! わたくし、婚約者が――いえ、今はあってなきようなものでございますが、しかし、そういう意味で美しいと仰ったのだとしたら、それはあまりに突然で……!」
私の口から噴き出るように言葉が次々と溢れる。
しかし、ジャン・クラウゼは気にかけず一歩、私の方に歩み寄って、静かに、しかし重々しく告げた。
「その大腿四頭筋、無駄のない張り!ふくらはぎの腓腹筋、しなやかにして引き締まり、走者のそれに匹敵する。日頃から正しい姿勢と運動を怠らず、相当な意識で身体を作り上げている証だ」
「は!?」
「ああ―なんと、美しい筋肉なんだ!」
「美しいって……そっち……!?」
「そうだ。肉体は鍛えた者にしか得られぬ誇りだ。美の極致とは、精神と肉体が一致してこそ現れる」
ジャンはまっすぐ私を見ていた。いや、正確には――私の筋肉を見ていた。
「たとえ貴族であろうとも、いや、貴族だからこそ、その努力を私は尊ぶ。君のような身体を持つ令嬢がいるとは、正直、驚愕だ」
……もう、どうすればいいのよこの状況。
私はその場にへたり込みたくなる気持ちを必死で堪えた。顔の火照りは、羞恥なのか、怒りなのか、それとも単なる運動の余熱なのか、もはや判断できない。
「……それって、要するに、褒められて……るんですよね?」
「無論だ。最大限の賛辞を送っている。特にこの広背筋と腹斜筋のバランス。まさに理想的だっ」
「もう、まぎらわしい……」
私は思わず頭を抱え、声を上げていた。
そんな私の反応を、ジャンはきょとんとした表情で見つめていた。
真顔で、何がいけなかったのか本気でわかっていない様子が、逆にたちが悪い。
――乙女ゲームではヒロインに優しく微笑みかけ、甘い言葉で口説いていた攻略キャラが……
よりにもよって悪役令嬢には、筋肉賛美の演説。どういうこと?
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