SIDEアメリア
貴族の令嬢というのは、優雅に紅茶を啜りながら、花の香りの中で微笑んでいればいい――私はずっとそう思っていた。
それが崩れたのは、エリザベートお嬢様がある朝「ダイエットするわよ!」とおっしゃったその瞬間だった。
「運動なんてお止め下さい~!」
「運動なんて大げさね。ただの散歩よ」
青天の霹靂とはこのことだった。
私は懸命にお嬢様を止めた。
貴族は汗をかかないもの。絶食こそが上流階級の美の秘訣、運動などは下町の商人や兵士のすること。――そんな常識を打ち砕くように、お嬢様はレースのついたドレスを躊躇なく脱ぎ捨て、運動しやすい服へと着替えられた。ほとんど下着姿と変わらぬ恰好で、あられもないポーズをとっている。
「そんなはしたない恰好で動かないでくださいませ~」
「あら、ストレッチって身体に良いのよ?ほら、アメリアもやってみなさい」
「え、えぇ!? 私もですか!?」
最初はただ、付き添いのメイドとしてしぶしぶ従っていただけだった。けれど、気づけば私の朝は、お嬢様と共に体をほぐし、軽く汗をかく運動で始まるのが当たり前になっていた。
そしてある日、お嬢様は“筋トレ”なる未知の鍛錬を始められた。
「アメリア、あなたも一緒にやってみましょう」
その一言に、私はつい「はい」と答えてしまったのだ。今、私はお嬢様の私室で、汗だくになりながらスクワットとやらをしている。
「いい?アメリア。脚を肩幅に開いて、背筋を伸ばして。お尻を突き出す感じで、ゆっくり腰を下ろしていくの」
厚手の緋色の絨毯。その上に敷かれたリネンの敷物の上で、私たちはまるで軍の訓練のような動きを繰り返していた。お嬢様の額には汗が滲み、しかし口元は引き結ばれ、目には凛とした輝きが宿っている。
「いち、に……」
私はその掛け声に合わせて、ぎこちなく膝を曲げた。
太ももが張り詰めるように熱を持ち、ふくらはぎが軋む。バランスが崩れて後ろに転びそうになるのを必死に堪えながら、床に沈むように腰を落とす。
「さん、し……」
「ひい……っ!」
膝が笑う。体が、ずしんと重く感じる。
「アメリア、背筋が丸くなってるわよ。はい、もう一回!」
「ひぃぃぃ、も、もう無理ですぅ……!」
お嬢様が、きっぱりとそう言い放つ。
「大丈夫よ!人間、無理になってからが勝負なの!」
最近のお嬢様は、何だか別人みたいだった。
ふくよかな体型だった頃の、あの気だるげで、威圧的で、でもどこか寂しげな影を宿していた面影はもうない。代わりに、笑顔に確信が混じるようになって、目が生き生きしている。
「あと五回、いけるわよ。呼吸、忘れないで」
「ご、ごかい……!? ご回、回もぉぉ……っ!」
悲鳴を上げつつも、私は隣でなんとか身体を沈めていく。汗が首筋を伝い、太ももはぷるぷると震えていた。
「さ、次は壁を使った腕立てよ。これは腕と胸、体幹にも効くらしいわ」
お嬢様は壁の前に立ち、両手を肩の高さで壁につくと、体を斜めに倒しながら、肘をゆっくり曲げ始めた。
「壁腕立て伏せ、っていうの。床よりは優しいのだけれど、なかなかきついわよ」
おそるおそる、私も壁の前に立ち、真似をして体を傾ける。すると肩の裏や二の腕が、ピキピキと音を立てるように悲鳴を上げた。
「ふ、ふあぁぁっ……! こ、これ地味にキツいですぅ!!」
「効いてる証拠よ。ほら、アメリア、肩甲骨を寄せて――そう、それ!」
隣から聞こえるお嬢様の声が、熱を帯びていて、妙にまぶしかった。
「ふぅ、ふぅ……なんでこんなこと……してるんですか、お嬢様……」
「え?」
しゃがみ込んだ私に、お嬢様はタオルを差し出した。お嬢様は、その問いに少し考え込んで、それからぽつりと呟いた。
「うーん、そうね……見返したかったのよ。私を笑った人たちを」
目を伏せた横顔に、いつになく深い影が落ちる。
「豚のように太っていてみにくいと、影で嗤われていたわ。婚約者の殿下にすら、蔑まれた」
唇をきゅっと結び、少し息を呑んだ後――
「でも……何より変えたかったのは、自分自身よ。嫌いになりかけていた自分に、自信を取り戻したかった。痩せて、美しくなって、誰かの評価じゃなくて――自分の目で、自分を誇れるように、なりたかったの」
晴れやかな笑顔で放たれたその一言に胸を射抜かれた。
そして私は、となりに立つ彼女が、いつの間にかどれほどまぶしい存在になっているかを、改めて思い知らされたのだった。
気がつけば数カ月が経ち、ある日ふと鏡を覗いた私は、思わず息を呑んだ。くすんでいた肌は明るさを取り戻し、目元には活力が宿っている。髪にも艶が戻り、頬には自然な紅が差していた。
これが、私!?
思わず、満面の笑みを浮かべてしまう。
「アメリア、その笑顔、いいじゃない」
お嬢様にそう言われたとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。私の人生が、静かに、しかし確かに塗り替えられていくのを感じた。
ある昼下がりの庭園。
石造りのテーブルの上には、私が淹れたカモミールのハーブティー。湯気がゆるりと立ちのぼる静かな午後だった。
ティーカップをそっと口元に運びながら、お嬢様がぽつりと――まるで風に混じるような声で呟かれた。
「ねぇ、アメリア。私、昔の自分が嫌いだったの。醜くて、弱くて、諦めてばかりいたわ」
……はい。存じております。
かつて、私の目に映っていたお嬢様は、いつも憂鬱そうでしたもの。
食堂で食べすぎては苦しそうにソファにうずくまり、鏡の前ではいつも無言。髪をとかして差し上げても、反応はなく、ふとした拍子にため息だけがこぼれる。
ダイエットに何度挑戦しても、上手くいかないようで、「こんなに食べても全然満たされないのよ」と笑ったその顔が、どこか寂しげで、私にはどうすることも出来なかった。
でも――もう、あの頃のあなたではない。
「…お嬢様は変わられましたよね」
「ええ、アメリアにはたくさん心配掛けちゃったわね。……こんな私を支えてくれて、ありがとう」
そんな風にお嬢様に言われて、胸が熱くならないはずがなかった。
まるで、冷たく凍っていた泉の表面に、春の陽射しが差し込んだような。
じんわりと滲む視界に、思わず目を伏せた。
努力を惜しまず、涙を隠して、それでも前を向こうとするお嬢様の姿は、私にとって誇りだった。
かつて彼女を笑った者たちが、今では羨望の眼差しを向けてくる。でも、お嬢様の美しさは、ただ外見が変わったからではない。
それは、己を乗り越える強さと、諦めない意志の輝き――心の内側から溢れる、本物の美。
「お嬢様、これからも……どうか、おそばで仕えさせてください」
この人を支えたい。この人と、共に歩みたい。何があっても、どんな未来が待っていようとも。
その背に、私は光を見た。戦う騎士のように、信念を胸に進む人の光だった。
あなたはもう、誰にも笑われる存在じゃありません。誰よりも、誰よりも――格好いい。
どんな道を選ばれても、私はついていきます。その輝きを、一番近くで見守らせてください。
ひとまず毎日の更新は此処まで。続きではカミルとの恋愛模様やざまぁのターンを書いていきます。また王子以外の攻略キャラも登場予定。只今、続きを執筆中なので、書き終わり次第更新します~。
続きを読みたいと思った方はブクマ&評価をお願いします!
そして土曜日の夜6時10分に短編『婚約破棄された令嬢、筋肉で全てをねじ伏せる』を掲載予定ですので、気にる方は読んでくださると嬉しいです。




