16話 周囲の変化
「今日は家族の皆様揃ってのご昼食でございます」
「分かったわ」
アメリアを伴い、グラシエル家の長い回廊を歩く。磨かれた石の床が足音を反響し、壁に差し込む光が静かに揺れていた。ふと、どこからか囁くような声が耳に届いた。
「……本当に、あれがエリザベート様なの……?」
メイドの一人が呟く。手元の銀食器を拭く手が止まり、茫然とした目が私に注がれる。かつて「ぶくぶく太った没落令嬢」と陰口を叩かれた私が、まるで別人のように優雅に歩いているのが信じられないのだろう。
「前はあんなに丸くて、歩くだけで息切れしてたのに……。いまじゃ、貴族画家の肖像画から抜け出したみたいな美しさじゃない……」
その言葉に、近くで耳を傾けていた別の年配メイドが苦笑交じりに応じた。
「ほら、アメリアのことも見てごらんなさいよ。前はいつもくたびれた顔してたのに、今じゃ肌はつやつや、髪もふわふわ。まるで貴族の令嬢みたいじゃない?」
「……あの子、エリザベート様と一緒に野菜とか雑穀の料理ばっかり食べてるんでしょ。うそみたい……そんな庶民の食事で、ほんとに綺麗になるなんて」
やっかみ混じりのその声には、かつての嘲笑が消え、代わりに混乱と羨望が入り混じっていた。見下していた相手が、自分よりも輝き始めたとき、人の心はときに素直になれないものだ。
私は何も言わずに通り過ぎる。ただ背筋を伸ばし、堂々と歩を進めた。
そして、その日の昼食時――グラシエル家の食堂では、予想していなかった変化が起きた。
テーブルに並んだのは、黄金色に澄んだ野菜のコンソメスープ、瑞々しいグリーンリーフに紫玉ねぎとトマトが映える彩り豊かなサラダ、そして塩だけで丁寧に焼き上げられた鶏胸肉のソテー。
これまで霜降りの牛ステーキや脂が浮いた濃厚なポタージュが並ぶのが常だった我が家にとって、驚くほど質素で、けれど健康的な献立だった。
私はフォークを取り、サラダから一口。
リーフのシャキッという音とともに、爽やかな瑞々しさが広がる。トマトの甘みと紫玉ねぎのやわらかな辛みがアクセントとなり、酸味の効いたシトラス系ドレッシングがそれぞれの素材を引き立てていた。
続いて、鶏胸肉のソテーにナイフを入れると、香ばしく焼き上げられた皮目がかすかにカリッと音を立てた。
断面はしっとりとしていて柔らかく、塩だけで味つけされたとは思えないほど、噛むほどに広がる深い旨味。シンプルだからこそ、素材そのものの良さが際立っていた。
「このスープ……野菜だけで、こんなに深みのある味になるとはな」
スプーンを口元に運んでいた父が、ふと動きを止め、低く呟いた。
スーツのボタンがはち切れそうなほどに張った腹。額には滲む汗。顔色も冴えず、長年の不摂生の影が見て取れた。
それでも、その声には困惑と興味、そして自嘲まじりの悔恨が滲んでいた。
「ふぅ……」
一息吐いてから、父は私をまっすぐに見据える。
「エリザベート、お前は変わった。本当に見違えるようだ。……我々もお前を見習うべきだと反省したのだよ」
その言葉に、母も小さく頷いた。指先で真珠のネックレスをなぞりながら、どこか遠い目をして言う。
「ええ……最近、膝が痛くてね。階段を上るたびに軋む音がして、まるで年寄りみたいなの。医者には痩せなさいと言われ続けていたけれど、絶食なんて耐えられないし、もう無理だと諦めていたの。でも、貴女の姿を見て……正直、胸を打たれたのよ」
その瞳には、かつて母娘で語らった日々の名残と、今の私への新たな敬意が同居していた。
「ふん……貧乏人の食事だと笑っていたが、こうも劇的な変化を見せつけられては、無視などできん」
父はそう呟くと、料理長へと視線を向けた。
「次からは、エリザベートと同じ献立を、家族全員に出すように。いいな?」
料理長は一瞬目を見開いたが、すぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
その光景を見て、私は内心で静かに息を呑む。かつて野菜を平民の食べ物と嘲っていた両親が、まさか自ら望んで口にする日が来るとは思ってもいなかった。
人の心は、そう簡単には変わらない。ときに、素直になることすら怖れるものだ。けれど、私一人の変化が、少しずつ、でも確かに、周囲を揺り動かしている。努力して手に入れた結果は、誰にも否定できないのだと改めて実感した。
私はそっと微笑むと、グラスを手に取り、父と母に視線を向けた。
「……ありがとうございます。とても、嬉しいです」
その言葉に、食卓を包む空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
私の変化が誰の目にも明らかになってからというもの、屋敷の空気はがらりと変わった。
両親に続いて態度を変えたのは、長年グラシエル家の厨房を預かってきた料理長だった。
「……エリザベート様。先日は、まことに失礼をいたしました」
料理長は私のもとを訪れて、誰よりも厳格で誇り高かったその頭を、深々と垂れた。
彼はこれまで、公爵家にふさわしい重厚な伝統料理こそが最高と信じ、それを作ることに一切の疑いを持たずにいた。
その信念を、自らの手でいったん置き、彼は悔いと誠意を込めて、言葉を紡いだ。
「お嬢様が召し上がっていた“健康的な料理”を、私は最初、突飛な気まぐれと高をくくっておりました。しかし、自ら味を確かめ、お嬢様のご様子を目の当たりにし……己の未熟を思い知らされました」
彼は胸に拳を当て、瞼を閉じる。
「料理人として、心から恥じ入るばかりです。どうか、お嬢様のお考えを学ばせていただけませんか。私にもう一度、食の本質を見つめ直す機会を、与えてはいただけないでしょうか」
その声音には、傲慢さの欠片もなかった。
矜持を失わず、しかし素直に頭を下げるその姿に、私は小さく微笑んで頷いた。
「ええ。もちろん喜んで。これからは、身体に優しくて美味しい料理を、皆のために作ってちょうだい」
「……はっ!」
返事の声は、かつての彼のそれよりも遥かに力強かった。
その瞳には、料理人としての新たな探究心が、確かな火となって灯っていた。
そして変わったのは、彼一人だけではない。
廊下を歩けば、使用人たちは一様に丁寧に頭を下げ、その目には、かつてにはなかった敬意が宿っていた。
以前のような陰口や嘲笑は、いつの間にか消え去っていた。
あれほど私を侮っていたメイドたちでさえ、今では慎ましく振る舞い、言葉づかいや態度にも気を配るようになっている。
変わったのは、私の外見だけではなかった。
それに真摯に向き合い続けた意志と努力が、少しずつ、周囲の心を動かしていた。
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