12話 実験Ⅰ
私は王太妃教育の一環として、日々近隣諸国の言語を学んでいた。すでに礼儀作法や政治学、宮廷の歴史の課程は終えていたが、将来の外交に備えて、今は各国の語学と文化に関して学んでいた。
――婚約者である殿下との交流は、相変わらず進展はなかったけれど。
一方のカミルもまた、貴族家の医療顧問としての往診や、薬学講師として学園で講義を行うなど多忙を極めていた。
それでもなお、ほんのわずかな隙間時間を縫って、私たちは王立学院の温室へ足を運んだ。
古びた蔦が這うガラス窓から差し込む柔らかな陽光は、緑の葉を透かしながら地面に模様を描き出す。どこからか聞こえる水滴が葉から滴り落ちる音と、春の訪れを告げる小鳥たちの、楽しげなさえずりが重なり合い、穏やかな調べを奏でている。
この場所に身を置くと、騒がしい日常から隔絶され、まるで私の心の襞をそっと撫でてくれるような、穏やかな安堵感に包まれた。
「……ふぅ」
私はそっと息を吐き出し、周囲の緑を見渡した。
「ここに来ると、不思議と落ち着くわね。まるで、この空間の全部が、静かにゆっくりと息をしているみたい」
隣に立つカミルは、私の言葉に静かに頷いた。
「ああ。目に見えないけれど、植物たちの息遣いが聞こえる気がするでしょう?人間よりもずっと自然に、そして迷いなく、まっすぐに生きているんだ」
彼はそう言って、手近な素焼きの鉢に植えられた、葉の表面に細かな毛が生えたハーブに、そっと指先を添えた。その仕草は、まるで熱にうなされる患者の額に触れるときのように、優しく、慈しむようだった。
「あら、この香りは……ローズマリーね。集中力を高める効果があるのよね」
私がそう呟くと、カミルは穏やかな笑みを浮かべた。
「良かったら、少し分けましょうか。紅茶にして飲んでもいいんですよ」
「それじゃあ、お願いするわ。最近、どうも集中力が散漫で……」
「忙しすぎるのではないですか?無理は駄目ですよ」
カミルはそう言って、手近な鉢植えのハーブにそっと指を添えた。その仕草は、まるで患者を診るときのように優しかった。
調合室は温室の奥、外の喧騒から切り離されたように静かな場所にあった。
木製の作業台には、乳鉢やガラスのビーカー、天秤、細かな目盛りの秤が所狭しと並べられ、その周囲には乾燥させたハーブや鉱石の瓶が整然と棚に並んでいる。
瓶の蓋には走り書きされたラベルが貼られ、それぞれの効能や配合比が記されていた。
ただし、美容に使える安全な素材となると、意外なほどに選択肢は少ない。
肌の炎症を抑えるもの、滑らかに見せるもの、皮脂を吸着するもの……自然由来の原料はどれも一長一短で、扱い方を少しでも誤れば、理想から遠ざかってしまう。
一度の試作で満足のいくものができるなど、ほとんど奇跡に近かった。
「うーん……やっぱり、塗ったあとに粉が浮いちゃうわね」
私は手の甲に試作品を塗りながら、眉をひそめた。
「ふむ……それなら、滑沢剤としてカオリンかタルクを加えてみるのはどうでしょう?」
カミルがすぐに棚へ向かい、整然と並んだ瓶の中から二つを取り出す。その動きは迷いがなく、どこか職人めいていて、私は少し見とれてしまう。
「こちらがカオリン。白陶土とも呼ばれるもので、粒子が非常に細かく、肌に触れたときの滑りが良くなります。こっちはタルク。こちらもよく使われますが、配合量には注意が必要です」
瓶の中でさらさらと揺れる粉末は、まるで真珠を砕いたかのように繊細で美しい。
「うん……それなら、粉っぽさを抑えながら、自然なツヤを出せるかも!」
私は手帳を開きながら、思わず声に力がこもった。ペンを走らせる指先に、焦りはない。ほんのわずかでも希望が見えると、心がふっと軽くなる。
「なんだか楽しそうですね」
カミルが横から静かに笑いかけてくる。
「楽しいというより……手応え、かな。小さくても、出来るかもしれないって実感できると、前に進める気がするのよ」
「なるほど。……あなたは、研究者向きですね」
「ふふ、そうかしら?自分では、ただの凝り性だと思ってるけど」
研究者というより、オタク気質なのよね。
前世の頃からそうだった。好きなことには一直線で、妥協がきかない性分なのは変わらないらしい。
「それを言うなら、あなたこそよ?あんなに冷静にデータを並べて、でも、いつの間にか自分で一番楽しんでる顔してる」
「……そう見えてましたか?」
カミルは眼鏡の奥で、少しだけ照れたように目を細めた。まるで少年のようなその表情に、私もつられて笑ってしまう。
「ええ、見えてましたとも。お互い、研究室に籠もってる方が向いてるのかもしれないわね」
ふたりの間に、小さな笑い声がこぼれた。
その日から、私たちはさらに根気強く配合を試すようになった。
一日に試せるのは、せいぜい数パターン。それでも、たったわずかな比率の違いが、質感や発色に驚くほどの差を生む。
試験管の中の粉末は日ごとに色を変え、手触りも徐々に滑らかさを増していった。
「これ、昨日の配合より粒子の揃いがいい気がする。カオリンの方をほんの少し増やしたんだっけ?」
「ええ、2gほど。滑りが良くなる反面、マット感も増すので、光沢感とのバランスが難しいですね」
棚の一角に積まれていく実験ノートには、日付と配合の記録、それにカミルが記した化学的な所見と、私の感覚的なコメントがびっしりと書き込まれていく。
やがてノートは厚みを増し、ページをめくるだけで、私たちの歩みが一目で分かるようになっていた。
何度失敗しても、決して嫌にはならなかった。
むしろその度に、どうすればもっとよくできるのかを考えることが楽しかった。
成功に近づいていく手応えが、私たちを前に進ませていた。
今日は2話更新します!
キリのいいところまで掲載したいので!18:10に更新予定。
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