11話 相談
王立学院の裏手にある、半球型のガラス温室。
太陽の光が天窓から降り注ぎ、内側にはありとあらゆる薬草が青々と育っていた。ミントの涼やかな香りと、タイムの少し土っぽい匂いが混じり合い、微かに湿った土の匂いとともに胸いっぱいに広がる。
温室の奥。棚に並ぶ鉢植えの間を縫うようにして歩くその姿を、私はすぐに見つけた。
「カミル!」
呼びかけに、白衣の袖をまくった青年が、振り返って微笑んだ。
「やあ、エリザベート嬢。珍しいですね、こんなところに来るなんて」
「急にごめんなさい。でも、あなたにどうしても相談したいことがあるの」
私は胸元を押さえながら、一歩近づく。カミルは手入れしていた鉢を棚に戻し、こちらに向き直った。
「構いませんよ。ちょうど往診の合間でしたから。午前中はセリーヌ伯爵家の診察に行ってきたところで、午後からは此処で研究する予定だったんです」
「相変わらず忙しいのね」
「まあ、薬学院の講義もありますしね。おかげで日誌は文字で埋め尽くされてますよ」
彼は苦笑しながら、手にしていたノートをひらりと私に見せてくれる。中には細密な文字と図、そして色鉛筆で描かれた植物のスケッチがぎっしりと並んでいる。
「でも、エリザベート嬢の頼みなら、時間くらい捻出しますよ。何かあったんですか?」
「実は――」
私は、あの日の出来事を一気に話した。化粧品専門店で鉛白が使われていたこと、肌に負担をかけたくない気持ち、そして、この世界で毒性のない白粉を作りたいという願い。
カミルは黙って耳を傾けていた。真剣なまなざしの奥に、わずかな驚きと深い理解の光が宿っているのが見えた。
「鉛白ですか……。僕のところにも、鉛中毒に関する報告は少なくありません。化粧品に含まれる鉛白の危険性は繰り返し伝えているのですが、美しくなりたいという想いの前では、なかなか受け入れてもらえないのが現状ですね」
「私も、綺麗になりたいという気持ちは理解できるわ。でも、私は、肌を傷めるようなものを使ってまではなりたくないの」
「なるほど。確かに代わりになる新しい化粧品を開発すれば……、既存の危険な化粧品を使う人も減るかもしれない」
彼は軽く顎に手を当て、温室の奥へと歩き出す。私はその背を追った。
「この辺りに、君の探している素材がいくつかあるかもしれません」
彼が立ち止まったのは、窓から光が射し込む一角。そこには、乾燥されたハーブと鉱石の小瓶、そして細かく粉砕された白い粒が並んでいた。
「これは?」
「米粉です。東方の島から輸入された白米を粉末状にしたものですね。あちらでは赤ん坊の肌にも使われていて、あせも防止の白粉として親しまれているらしいですよ」
私は目を輝かせる。
「これなら、あの鉛白の代わりになるかも!赤ちゃんにも使えるものなら、きっと肌にもやさしいはず」
日本でも、米粉を使った化粧品は販売されていた。あの世界で私が愛用していた安全な商品たち……他には、何があっただろうか。必死に記憶をたどる。
「あとは……、そうだ!酸化亜鉛もあるかしら?」
「酸化亜鉛?」
カミルは机の引き出しから小さな袋を取り出した。
「酸化亜鉛、いわゆる亜鉛華なら此処にありますよ。これも白粉の原料に使えるかもしれませんね。ただし、分量には注意が必要ですが」
「お願い、カミル……!」
言葉が唇を突いて出た瞬間、自分でもその震えに気づいた。強くあろうと繕っていた仮面が、ふいに崩れたような気がした。
「私、一人じゃどうしても限界があるの……でも、あなたなら……あなたの知識と技術があれば、きっと……!」
息を詰めるようにして吐き出された言葉は、心の奥から搾り出した本音だった。
目を伏せたまま、胸元を押さえる。鼓動が、いつもよりも早い。焦がれるような不安と、微かな希望が入り混じっていた。
ふと、視線の先に影が落ちた。
カミルが、一歩こちらに歩み寄っていた。柔らかな足音。ガラス越しの陽光を背に受けた彼の輪郭は、まるで光そのものに包まれているようで。
「貴方がそう言うなんて、ちょっと意外だ。でも……」
静かな声。優しく笑んだその表情には、いつもの冷静な医師の顔ではなく、どこか親しみと誇らしさの混ざった感情が宿っていた。
「嬉しいよ。貴方が僕を頼ってくれて」
カミルの目が、まっすぐ私を見ていた。
彼はそっと、片手を私の肩に置いた。医師としての手。何度も人の命を守り、癒してきた手。それが、今は私をそっと支えてくれている。
「人々の健康のためにも、僕でよければ全力で協力しましょう」
「カミル……」
胸の奥で、ぽとりと何かが落ちた音がした。それは、長く張りつめていた孤独という名の緊張だったのかもしれない。ずっとひとりで戦ってきた。でも今、その手があたたかくて、言葉が優しくて、じわじわと涙腺が緩む。けれど私は、泣かなかった。
笑った。心から、穏やかに。
「ありがとう、カミル……これから、よろしくね」
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