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28.天馬と客人

 エルマはフォルトラにブラシをかけていた。

 翼の付け根の辺りをこすってやると、彼は気持ちよさそうに鼻を伸ばしている。

 馬の鼻の独特の柔らかさはフォルトラを撫でている時に知った。

 ぼーっとしているときの彼の鼻を撫でるのは、密かなエルマの楽しみの一つだ。


「フォルトラ、わたしは大丈夫だから……!」


 たまに彼が毛繕いのお返しをしてくれようとすることがある。

 もひもひ食まれるのはこそばゆいが、服や髪が乱れてしまうのが問題だ。

 やんわり断ると、「ちぇっ!」という顔をするものの、それ以上は追いかけてこない。


 厩番曰く「坊ちゃまがいないと大体不機嫌」な彼らしいが、エルマの前では賢くて素直ないい子だった。


(天馬は見た目こそ馬に似ているが、その本質は竜に近い……だったかしら)


 と言っても、エルマは実際の馬のことも、過去英雄達に討伐されたらしい幻想種のことも、よく知っているわけではない。


 敷地内に普通の馬もいるが、そちらは日頃のお仕事で人も馬もいつも忙しそうなので、特に用もなくふらふら訪ねるのはあまり好まれないように感じた。フォルトラの厩舎はのんびりしていていつ顔を出しても歓迎してくれるから、なんだか足を延ばしやすいのだ。


「……どうかした?」


 ブラシをかけている間は大人しい彼が、急に顔を上げてピンと耳を立てた。誰か来たのだろうか。


 エルマが馬房から出てみると、なんだか外が騒がしい。


「貴方という人はっ――!」

「まあまあまあ。だって何度催促してもちっとも連れてきてくれないし。だったら僕の方から直接訪ねるしかないじゃないか」

「護衛はどうなされました」

「ロゼインを見てわからないか? 置いてきた」

「……坊ちゃまに許可は?」

「世の中には便利な事後承諾という言葉がある。……ほら、無駄な抵抗をしていないで早く案内するんだ。会う前にユーグが帰ってきて追い出されたら、せっかく頑張って脱走してきた意味がなくなるじゃないか」


 どうやら屋敷の前で、見慣れぬ人とジョルジーが言い争っている。

 ぱっと目を引くのは彼が乗ってきたらしい天馬だ。

 天馬であることもさりながら、毛並みが黄金色なのである。


 エルマが息を呑んでいると、ひょっこり顔を出した厩番が慌てて世話をしに行った。

 するとぱっと、天馬の横の男がこちらに顔を向ける。


(……あっ、着替え!)


 フォルトラの世話をするときは、汚れてもいいような服を着ていた。近頃は厩舎の掃除なども手伝わせてもらっており、とても客人に見せる姿ではない。


 慌てるエルマだが、男がこちらに向かってまっすぐ歩いてきたので更に戸惑った。


「でん――」

「おっとその呼びかけはよせ、ジョルジー。今日の私は通り過がりの一般人だぞ? 気をつかってくれたまえ」

「客間にてお待ちくださいませ。というか勝手に出歩かないでいただきたい。何かあっても――」

「ユーグの家なら知ってる場所だから大丈夫だよ。それにどうせ転んだら説教されるのは僕だ。……さて、どの辺かな。方向はなんとなくわかったが、距離がつかみきれなくてね」

「……お嬢様はあと十歩程度先にいらっしゃいます」

「ご苦労。優秀な人間は好きだ、ジョルジー」


 男は変わった形の杖を持っており、歩く度にしゃん、と鈴の音が鳴る。

 明るい金髪で、ユーグリークと同じぐらい背が高く、身なりからして上級貴族だ。


 エルマの前までやってきた彼は、優雅に体を折り曲げ、手を差し出してきた。


「初めまして、魔性に魅入られた深窓の姫君。僕はヴァーリス――ヴァーリス=ディヤンドール。以後お見知りおきを」


 助けを求めて目をさまよわせたエルマに、執事はため息を落としながら簡潔に説明した。


「怪しい者ではありますが、坊ちゃまの腐れ縁……もとい、ご友人であらせられます」


(……そういえば、何度かお名前をお聞きしたかも)


 それではこの人が時々話題に出てくる、「城でユーグリークをしょっちゅう困らせている問題児のヴァーリス」なのだろうか。

 確かに、この積極性というか華というかは、ユーグリークと対照的にも思える。

 いや、ユーグリークに華がないわけではない――むしろ素顔に華がありすぎるのだが、彼はもう少し物静かであるというか。


「初めまして、ディヤンドールさま。ジェルマーヌ閣下にお世話になっております、エルマ=タルコーザと申します。あの、このような格好で……お許しくださいませ、すぐに着替えて参ります」


 スカートではないから裾をつまむこともできないし、先ほどまでフォルトラを触っていた手を差し出すのも気が引ける。


 エルマが挨拶を返すと、男はうっすら瞼を上げる。淡い碧眼がちらりとのぞいた。


「ああ、格好なら別に気にしなくていいよ。だって僕には何も見えていないんだからね」



 ドレスに身を包み、客間にやってきたエルマは、我が家のようにくつろいでいる客人の姿を見つけた。


「ジョルジー、お代わり」

「あのですね……」


 エルマがやってきた気配に顔を上げた男は、ちょいちょいと彼女を手招きする。


「やあ、エルマ。待っていたよ。どうせわからないんだからそのままでもよかったのにな」

「そういうわけにも参りません、でん――」

「ディヤンドール閣下。心得てくれたまえ、各位」


 ジョルジーは渋い顔で、ニーサがこめかみに手を当てた。


 エルマは客人の正面の席に座る。


「その……不躾な質問かもしれませんが。閣下は本当に、目に不自由がおありなのですか? とてもそうは……」

「物心つくかという頃、高熱で生死をさまよったらしくてね。それ以来今の状態だ。悪い事ばかりでもないよ? おかげでユーグリークの友達にもなれたし」


 なるほど、とエルマは納得した。

 ユーグリークは顔を見た相手の正気を奪ってしまうそうだが、元から見えていないなら確かに呪われようがない。

 屋敷の使用人達が年配者中心なのも、若者に比べてぼんやりした視界だから若干呪いが効きにくい、という理由もあるのだろうか。


 カップを置いた客人は、長い足を組み、その上に両手を乗せた。エルマも自然と、釣られて姿勢を正す。


「さて、エルマ=タルコーザ。僕は君に会いたくて仕方なかったんだ。この日を迎えられて嬉しい」

「わたしに……?」

「だって今まで誰に対しても素っ気なくて冷たくて無愛想で、立っているだけで周りを震え上がらせる“氷冷の魔性”がだよ? 近頃せっせと城を抜け出しているなと思ったら、なんと逢い引きにいそしんでいるらしい! 永久凍土はいかにして溶けたのか。非常に興味深いじゃないか」


 男の碧眼に、悪戯っぽい色が宿っている気がする。エルマはニーサのいれてくれたお茶に手も付けず、じっと客人を見つめた。


 自分が彼にふさわしくないという話なら、エルマには返す言葉がない。

 しかしユーグリークが貶されているのなら黙って言われっぱなしというわけにはいかないのだ。


「あの……恐れながら、何か誤解されているように存じます。ユーグリークさまはお優しい方で、困っているわたしを助けてくださったのです。わたしも力不足は感じておりますが、少しでもご恩を返せるように……」

「ジョルジー。優しいだと。あの万年お祈り男が。優しい! 優しいのかあ、ふーん……へえ、そう……」

「拙からはなんとも」

「ユーグリークさまは最初からお優しい方ですが……何かおかしいのでしょうか?」

「友の意外性を知って面白がっているだけだから、気にしないでほしい。なるほどね……しかし、君も知っているだろうが、あれは少々厄介な体質持ちだ。僕と違い、見える人間が付き合うのにはいろいろな苦労もあるのでは?」


 エルマはそっと、執事と侍女をうかがいみた。

 彼らはどこか諦めたような表情を漂わせており、余計な事を言うな、という雰囲気ではない。


「……閣下は既に、ご存知なのではないですか?」

「うん、そうだ。聞いてはいる。君は彼の顔を見ても平気らしいね」


 男は腕を組み、微笑みを深めた。エルマは少し考えてから、慎重に答える。


「正確に申し上げれば、全く効かない、という訳ではございません。ユーグリークさまのお顔には、不思議な力があって……わたしもあの方の呪い……でしょうか。それを感じることはあります。ただ……」

「ただ?」

「……深呼吸すれば、収まるので」


 男は考え込むような顔になった。笑みが薄れると、なかなか迫力がある。


「君は刺繍が得意なんだって?」


 エルマが間をごまかすようにお茶に手を伸ばしている間に、沈黙が破られた。エルマは慌てて飲み込む。


「得意、というほどではございませんが……」

「以前、ユーグリークの顔の布が破れたのを直したと聞いた。これは事実か?」

「はい。初めてお会いした時に……お困りでしたので」


 何か納得するように頷いた男は、懐に手を入れ、こつ、とテーブル上に何か物を置く。


「これは……?」

「見ての通り、懐中時計だ。整備はされているが、なぜか動かない。……君なら直せるんじゃないかな?」



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