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論語を読む  作者: 三河
八佾
51/196

禘自既灌而往者

・原文

子曰

禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。


・書き下し文

子曰しいわ

(てい)(すで)(かん)してより(のち)は、(われ)(これ)()るを(ほっ)せず。


・解釈

大神を祀る大祭も、御神酒を大地にそそぐあたりまでだな。

あとは見てられん。


・私言

神事を大事にする孔子さんは、神事が適当に行われるのがお気に召さない様子。

しかしながら、『見てられない』ということは『見ようと思えば見れる』という事。

天子が行う(てい)の祭りが一般公開されているとは思えないから、それを見ることができるとはやはりただ者じゃないね。


・用語

禘:天子が行う、大神と祖霊を祭る大祭

灌:御神酒を地面に灌ぐ儀式

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