第九十八話:紅蓮の天眼(トップビュー)
上空三十丈、風に揺れる籠の中で、真田信繁は眼下に広がる戦場を凝視していた。
この「熱気球」なる異形の器に乗り込む際、浪紫から「地上の戦いを三次元で捉えろ」と命じられた意味を、信繁は今、戦慄と共に理解していた。
「……見えた。浪紫殿の仰せの通り、木々の隙間、死角に潜む影が手に取るようにわかる」
信繁は手にした望遠鏡を下げ、地上で待機する浪紫へ向けて合図を送る。籠の脇に備え付けられた巨大な赤い旗が、信繁の手によって鋭く振られた。
地上では、浪紫零也が腕を組み、空を見上げていた。
「信繁殿からのパケット通信……もとい、旗信号だ。源鉄斎殿、左前方、あの枯れ沢の影に伏兵がいます。信繁君の視点は嘘をつきません」
浪紫の隣で驚きを隠せずにいた天羽源鉄斎は、すぐさま背後の伝令へ叫んだ。
「浪紫殿の言葉を信じよ! 旗の指す方向へ鉄砲隊を向けよ!」
島津軍の「捨て奸」は、執念深く地を這い、追っ手を道連れにする戦術である。だが、空から射抜く信繁の「眼」と、それを受信して即座に最適解を導き出す浪紫の「采配」が合わさった今、島津の兵はただの標的に成り下がっていた。
見えないはずの伏兵が次々と狙い撃たれ、悲鳴が上がる。
籠の中で信繁は、冷たい汗を拭いながらも、奇妙な高揚感を感じていた。
(浪紫殿は、常にこの高さで戦を見ておられるのか。我ら武士が土にまみれて奪い合っていた地平が、これほどまでに狭いものだったとは……)
信繁の脳内では、浪紫から叩き込まれた「情報優位」という概念が、実体験として結実しつつあった。
浪紫は眼鏡の奥の瞳を光らせ、独り言を漏らす。
「島津の戦術を『ハードウェアの根性』とするなら、こちらは『ソフトウェアの革新』だ。根性だけでシステム(戦場)のバグは埋められないことを、ここで証明してやる」
島津軍の陣営は、かつてない混乱に陥っていた。
彼らが誇る「捨て奸」は、死を恐れぬ兵が道連れを求めて潜伏することで、追撃側の精神を摩耗させる戦術だ。しかし、姿を見せる前に、まるで見えているかのように空から「死の宣告」が下る現状に、兵たちの胆力が限界を迎えていた。
「化け物だ……小田の軍師は、天狗を飼っておる!」
茂みに潜んでいた島津の狙撃兵が、頭上を見上げ絶叫を上げる。その声は瞬く間に周囲の兵へと伝播し、恐怖という名の「バグ」が島津軍のシステムを内側から食い破り始めた。
上空の信繁は、その混乱を冷静に把握していた。
(敵の動線が乱れた。個の死兵ではなく、集団としての崩壊が始まっている)
信繁はすぐさま、赤旗に加えて黄色い旗を大きく回した。これは浪紫と事前に決めていた「総攻撃」の合図だ。
地上でその合図を認めた浪紫は、不敵な笑みを浮かべる。
「チェックメイトだ。源鉄斎殿、菅谷殿、全軍を『面』ではなく『点』で突入させてください。敵の指揮系統は、もう機能していません。島津義弘の首一点に攻撃を集中します」
天羽源鉄斎が軍配を振り下ろす。
「全軍突撃! 空の真田殿に続け! 鬼島津を追い詰めよ!」
小田軍の怒涛の突撃が開始された。これまでの慎重な進軍が嘘のように、兵たちは空の信繁を、そして地上で最適解を示す浪紫を信じ切り、猛烈な速さで島津の殿を食い破っていく。
その猛追の最中、ついに浪紫の視界に、一際大きな旗印を翻し、馬を走らせる一団が捉えられた。
「見つけたぞ。島津義弘。……この時代の『最強』というパラメータが、現代の『合理』にどこまで抗えるか、最終テスト(検証)といこうか」
浪紫の眼鏡が、戦場の硝煙と夕日に照らされて冷たく光った。




