第九十七話:天眼(てんがん)の導き
島津軍が仕掛ける「捨て奸」の猛威により、小田軍の進軍速度は著しく低下していた。道々の藪や岩陰に潜み、死を賭して狙撃してくる薩摩隼人の執念は、百戦錬磨の菅谷政貞ですら、「どこから撃たれるか分からぬ」という極限の緊張感に疲弊させていた。
「浪紫殿、これでは敵の術中だ。一歩進むごとに兵を失い、将の心も削られてゆく……」
菅谷が血の滲むような声で訴える。隣の天羽源鉄斎も、打開策を見出せず苦い表情を浮かべていた。
だが、浪紫は冷静に空を見上げていた。
「地上の理で戦うから、彼らの土俵に引きずり込まれるのです。……菅谷殿、源鉄斎殿。戦を『平面』から『立体』へと書き換えます」
(……島津の伏兵は、相手が地面を歩くことを前提とした最適化がなされている。ならば、こちらの観測点を空へ移せば、彼らの偽装はすべて無意味なノイズに変わる)
浪紫が命じて運び込ませたのは、かつて近江で試作させた「巨大な紙風船」に火を焚きつけ、布を張った籠を吊るした奇妙な装置――熱気球であった。
「な、なんだそれは……。あんな巨大な提灯を浮かべてどうするのだ!」
源鉄斎が驚愕する中、浪紫は若き真田信繁をその籠に乗せた。
「信繁殿、怖ろしいでしょうが、空から地上を俯瞰してください。あなたが掲げる旗の動きを合図に、菅谷殿の部隊を誘導します」
「ははっ、浪紫殿! これは面白い。まるで鴉天狗になった気分ですな!」
熱気球がゆっくりと上昇し、島津の伏兵たちが潜む森を見下ろす高度に達した。上空からは、草木に紛れているつもりでいた薩摩兵の配置が、盤上の石のように一目瞭然であった。
「……信繁殿の旗が右を指した。菅谷殿、あそこの茂みは無視して右の谷筋を抜けてください。左の岩陰に敵の主力が固まっています」
浪紫が地上の指揮所に冷静な指示を飛ばす。
「おお……! 敵がどこに居るか、手に取るように分かると申すか!」
菅谷政貞は、上空からの導きに従い、島津が用意した死の罠を次々と回避していった。伏兵たちは、自分たちの居場所がなぜか露見し、包囲される前に小田軍が最短ルートで駆け抜けていく光景に、得体の知れぬ恐怖を抱き始めた。
(戦場全体の情報を一方的に把握する。これが情報の非対称性による勝利だ。島津がどれほど個の武勇を極めていようと、不可視の眼には勝てない)
島津義弘は、空に浮かぶ巨大な「眼」を見上げ、震える手で刀を握り直した。
「……小田の浪紫。貴様は神仏の領域まで踏みにじるというのか……!」
ついに島津の防衛網は瓦解を始め、小田軍は大きな損害を出すことなく、博多を射程に捉える地点まで到達した。




