第九十六話:捨て奸(すてがまり)の執念
戸次川での一戦は、島津にとって屈辱以外の何物でもなかった。最強と自負した「釣り野伏」が、浪紫の用意した「壁」と「弾幕」という、理に徹した戦法に完敗したからである。
薩摩の本陣。鬼島津と恐れられる島津義弘は、篝火に照らされた地図を睨みつけていた。
「……小田の戦、もはや兵法の外よ。奴らは我らと太刀を交えることすら拒み、ただ鉄の礫で人を削るのみ」
「なれば、義弘様。これよりは『戦』ではなく『狩り』を仕掛けましょうぞ」
側近の言葉に、義弘の眼光が獣のように鋭さを増す。
一方、小田軍の本陣。菅谷政貞は、勝利の余韻に浸ることなく、夜を徹して陣地の補強に当たっていた。そこへ、浪紫が静かに歩み寄る。
「菅谷殿。敵は、ただでは退きません。次は、組織の統制を捨ててでもこちらを道連れにする……いわば『狂気の策』を繰り出すでしょう」
(……島津の最終奥義、捨て奸。組織的な撤退ではなく、殿が死ぬまで座り込んで敵の足を止める、極限の遅滞戦術だ。これをやられると、こちらの前進速度が致命的に削られる)
「案じるな、浪紫殿。氏治様をお守りする盾となるのが、我ら譜代の役目だ。どんな泥臭い戦いになろうと、一歩も引かぬ」
翌朝。小田軍が博多を目指して進軍を開始した直後、平地の至る所に、三人、五人と小人数で座り込む島津兵が現れた。彼らは逃げる様子もなく、ただじっと小田軍の先頭を見つめている。
「……何だ、奴らは。捨て身の挑発か?」
軍師・天羽源鉄斎が不審げに声を上げたその瞬間、座り込んでいた島津兵が一斉に火縄銃を放った。
「――撃て! 敵の将を狙え!」
それは、死を前提とした狙撃であった。一人が撃てば、小田軍が反撃する前に次の組が横から飛び出し、文字通り「肉の壁」となって立ち塞がる。
「浪紫殿、敵が……奴ら、死ぬまで道を譲らぬ構えです! これでは軍が進みませぬ!」
菅谷が盾を構えながら叫ぶ。浪紫は、凄惨な光景に唇を噛んだ。
(……これこそが島津の真骨頂。合理性を完全に破壊する、狂信的なまでの忠誠。これを力で排除しようとすれば、こちらの兵の精神が先に摩耗する……)
「菅谷殿、源鉄斎殿、無理に突破してはなりません! 敵の狙いは、我らの怒りを誘い、陣形を乱すことにあります。……ここは、力ではなく『孤立』をもって制します。敵の点を結ばせず、補給を断つ形で囲い込みなさい!」
浪紫は、この島津の執念を、どうにかして「平和へのエネルギー」に変換できないものかと、必死に計算を巡らせていた。




