第九十四話:損切り(ロスカット)の決断
豊後・臼杵城。
海に突き出したこの堅城は、島津軍の猛攻に晒されながらも、大友宗麟が最後に縋る「祈りの場所」でもあった。
大広間に通された浪紫、天羽源鉄斎、菅谷政貞の三人を迎えたのは、やつれながらも眼光だけは鋭い宗麟であった。
「小田の使者殿。……救援はありがたいが、博多を預けるという話、聞き捨てならぬな。大友は数百年にわたり九州を差配してきた。軒を貸して母屋を取られるような真似を、この宗麟が許すとでも思ったか」
宗麟の言葉には、戦国の雄としての最後の意地が籠もっていた。側に控える源鉄斎が、思わず扇子を握り直す。だが、浪紫は微塵も揺るがず、懐から一通の「帳簿」を取り出した。
「宗麟殿。ビジネス……いえ、家の存続において最も重要なのは、『資産』を守ることではなく『再起』の余力を残すことです。現在、貴家の領国経営は完全に破綻しています」
「何だと……?」
「島津軍の侵攻により、物流は止まり、徴収できる年貢は激減。一方、戦費だけは膨れ上がっている。このままでは、博多を守るどころか、この臼杵すら数月と保たず、大友の血脈そのものが消失します。……それは、ご先祖への不忠ではございませんか?」
浪紫の冷徹な分析に、宗麟の頬が痙攣する。そこへ、菅谷政貞が静かに、しかし重みのある声を添えた。
「宗麟殿。我ら小田家も、かつては幾度も本拠を追われた弱小の身。守るべきは土地ではなく、主君の命と民の安寧……それを浪紫殿に教えられ、今日まで生き残って参りました。我ら譜代の者がこうして頭を下げておるのです。どうか、小田を信じていただきたい」
菅谷の誠実な訴えに、宗麟の視線がわずかに和らいだ。浪紫はその隙を見逃さず、決定的な「条件」を提示する。
「博多を小田が管理するのは、あくまで島津を排除し、平和な市場を再構築するための『一時的な信託』です。戦が終わり、九州に新たな統治構造が確立した暁には、大友家には豊後一国を永久に安堵し、さらに南蛮との交易利権の三割を配当いたします」
「……三割だと?」
「左様です。防衛費という名の莫大なコストを小田が肩代わりし、宗麟殿は安全な城で交易の益のみを手にする。……これは『支配』ではなく、大友家を延命させるための『投資』にございます」
宗麟は深く目を閉じ、十字架のペンダントを握りしめた。
外からは、島津軍が放つ大筒の音が微かに響いてくる。
「……浪紫殿。貴殿は、人の心すら銀銭で量るのか。だが……その無慈悲なまでの正しさこそが、今のこの国には必要なのかもしれぬな」
宗麟が重い腰を上げた。それは、中世九州の覇者が、小田という名の新秩序に身を委ねることを決意した瞬間であった。
(……交渉成立。これで博多という「駒」が動かせるようになった。次は、この博多をエサに、薩摩の猛獣たちを檻に誘い込む番だ)




