第九十二話:安芸の焦燥、深謀の楔(くさび)
瀬戸内の「海の王」村上武吉が小田に降ったという報は、瞬く間に安芸・吉田郡山城へと届いた。
毛利家の智将、小早川隆景は、届けられた書状を前に深く嘆息した。
「……長宗我部が動きを止め、村上が膝を屈したか。小田の浪紫という男、戦わずして我らの手足を捥いでゆく。まさに、生きたまま外壁を剥がされるような心地よ」
毛利の強みは、一族の固い結束と、それを支える強力な水軍、そして背後の安全にあった。だが、浪紫はそのすべてを、わずか数手の指し手で無力化してしまったのだ。
そこへ、浪紫が自ら使者として到着したとの報が入る。隆景は、あえて城の奥深くではなく、見晴らしの良い物見櫓で浪紫を迎え入れた。
「遠路はるばる、よく参られた、浪紫殿。瀬戸内の波は、さぞ静かであったろう」
隆景の皮肉混じりの挨拶に対し、浪紫は微塵も揺るがず、端正な一礼を返した。
「ええ。村上殿も、今後は戦火ではなく、商いの船で賑わう海を眺めるのが楽しみだと申しておりました。隆景殿、本日は安芸の山々を拝見しに来たのではありません」
(……小早川隆景。毛利を支える最高のインテリジェンス(知性)だ。この男には、小手先の脅しは通じない。毛利家という組織を存続させるための、最も合理的なエグジット・ストラテジー(出口戦略)を提示するしかない)
浪紫は、懐から一通の書状を取り出した。それは天子からの宣旨を添えた、毛利家への「国替え」および「地位保障」の提案書だった。
「隆景殿。毛利家が守るべき『三本の矢』とは、もはやこの安芸の土地ではございません。一族の血脈、そして培ってきた武名そのものです。……小田は、毛利家を『西国鎮撫の長』として厚遇したいと考えております」
「……土地を差し出し、小田の風下に立てと申すか。我らには我らの誇りがある」
隆景の拒絶に近い言葉に対し、浪紫は微塵も動じず、懐から一通の図面を取り出した。
「誇りで民は食えません。それに、誇りを守るために一族を滅ぼしては、元就公への不忠となるのでは? ……隆景殿、これは『左遷』ではありません。毛利家という巨大な力を、より相応しい舞台へシフト(転換)させる提案です」
浪紫が広げたのは、九州北部の地図であった。
「安芸・周防など中国路の百二十万石を返上していただく代わりに、筑前・豊前、そして肥前の一部……博多の街を含む九州北部の百五十万石を毛利家に委ねたい。石高を三割増しとした上で、九州全体の差配を任せる『西国鎮撫の長』としての地位を保障いたします」
隆景の目が、地図上の一点――博多の港に釘付けになった。
「……博多を、毛利に……? 九州の玄関口を任せると申すか」
「左様です。安芸の山間に籠もる時代は終わりました。これからは海を通じて南蛮や明と交わり、その富で家を潤す時代です。毛利の組織力があれば、博多を日の本一の商都にできる。……つまり、土地という資産を捨て、交易という無限の利益を手にするのです」
(……毛利という猛獣を、より広い、しかし小田の管理が届きやすい海沿いのマーケットへ解き放つ。隆景なら、この『三割増しの移封』が単なる施しではなく、新時代への招待状だと気づくはずだ)
隆景は、浪紫の瞳をじっと見つめた。そこには冷徹なまでに「正しい未来」を提示する、圧倒的な確信があった。
「……浪紫殿。貴殿は、鬼か、それとも救世主か。……博多を含む百五十万石。これほどの大商い、断れば毛利の先祖に顔向けができぬな」
「私はただの、相談役ですよ。
主君・氏治様の優しさを、形にするためのね」
静寂が櫓を包む。安芸の地を離れる寂寥を、未来への野心が静かに上書きしていった。




