第九十話:南風の矜持、沈黙の調略
土佐、岡豊城。
広間には、長宗我部元親と、その配下の荒武者たちが放つ、肌を刺すような殺気が充満していた。浪紫は、主君・氏治より預かった「南海道総督」の補任状を差し出したが、元親はそれを一瞥して床に投げ捨てた。
「……小田の使いよ。俺を侮るな。阿波、讃岐、伊予……俺が血を流して手に入れた、あるいはこれから手にする地を、なぜ他家と分け合わねばならん。四国は長宗我部のもの、俺が唯一無二の王だ」
元親の言葉に呼応し、家臣たちが一斉に刀の柄に手をかける。しかし、浪紫は微動だにせず、ただ静かに微笑みを浮かべていた。
(……やはり、旧来の領土というアセット(資産)に執着しているか。だが、元親。あんたが本当に欲しているのは『土地』そのものじゃない。『土地がもたらす富』と『天下に轟く名』のはずだ)
「元親殿。勘違いしないでいただきたい。私は貴殿の夢を奪いに来たのではありません。貴殿の歩みを、四国という小さな島から、日の本全土へと繋ぎに来たのです」
浪紫は静かに地図を広げ、四国の周辺にいくつもの円を描いた。
「今、小田家が構築している新たな『道』……。そこに四国が組み込まれなければ、土佐の紙も、阿波の藍も、外へは一歩も出せなくなります。私が一言命じれば、瀬戸内も紀伊水道も封鎖され、四国は豊かな『王の国』ではなく、ただの『飢えた孤島』と化す。……つまり……お分かりですね」
浪紫の言葉は低く、淡々としていた。しかし、その静かな響きには、拒絶すれば島ごと干し殺すという、抗いようのない冷徹な事実が込められていた。
元親の目が鋭く細まり、広間を支配していた殺気が、困惑と焦燥へと変わっていく。浪紫は突き放すように、最後の一句を添えた。
「こちらは元親殿にとって最良の案を提示しました。選ぶのはあなた自身だ。我らはあなたの選択を持って、今後の行動を決めさせていただく」
(……自尊心という名のサンクコスト(埋没費用)を捨てさせ、自ら決断させる。これが俺のクロージング(最終合意)だ)
長い沈黙が流れた。元親は浪紫を食い入るように見つめ、その底知れぬ瞳に何を見たのか、やがて床の書状をゆっくりと拾い上げた。
「……不敵な男よ。……よかろう。その『南海道総督』という椅子、俺の器に合うかどうか、まずは小田の力を見せてもらうぞ。……瀬戸内の鍵、村上武吉をどうにかしてみせろ。それが成れば、俺は貴様の描く絵に乗ってやる」
「承知いたしました。……それでは、私は『海』へ参ります」
浪紫は一礼すると、一度も後ろを振り返ることなく、土佐の城を後にした。




