第八十七話:玉(ぎょく)の再定義
京、御所。
そこは、天下を争う武将たちの喧騒から切り離された、静謐という名の時間が流れる場所だった。
浪紫は、主君・小田氏治の後方に控え、平伏していた。視線の先には、古びた、しかし凛とした空気を纏う御簾がある。
(……データ上では知っていた。今の朝廷は極貧だ。即位の礼すら満足に行えず、建物は朽ちかけている。現代の華やかな皇室とは比較にもならない、名ばかりの権威――のはずだった)
しかし、御簾の向こうから聞こえてきた天子の声は、浪紫の予想を裏切るものだった。
「氏治よ……そして、小田の智恵者よ。そなたらが石山の戦を鎮め、義昭の重荷を下ろしたこと、聞き及んでいる。……民は、笑っておるか?」
その問いは、政治的な駆け引きでも、権威の誇示でもなかった。ただ純粋に、戦火に焼かれる国土と、飢える民を案ずる「祈り」そのものの響きがあった。
(……この感覚、何だ? 損得勘定が働かない。ただ、この方の憂いを取り除かなければならないという、理屈を超えた衝動が、胸の奥から突き上げてくる。これは……DNAに刻まれた、日本人としての本能か)
浪紫の脳裏に、現代の平穏な日本の姿がフラッシュバックする。国民に寄り添い、共に歩む象徴としての天皇。その原型が、今、目の前にある「孤独な祈り」の中にあるのだと直感した。
「……天子様。民は今、ようやく空を仰いで息をついております。しかし、未だ西国は荒れ、争いの火種は尽きません」
浪紫は、許しを得ぬまま、しかし、これ以上ないほど誠実な声で言葉を継いだ。
(……俺は今まで、この方を『小田幕府』を正当化するための認証局として利用しようとしていた。だが、それは間違いだ。この方は利用するものではない。この国というシステムの、コア・アイデンティティ(中核的な存在価値)として、再び光を当てるべき存在なんだ)
「天子様、申し上げます。小田氏治は、私利私欲のために天下を望む者ではございません。ただ、公方様より託された『静謐』を完成させたいと願う、愚直なまでに優しい男にございます」
氏治も、感極まったように頭を下げた。
「左様にございます……。私は、ただ皆様に、安心して眠れる夜を過ごしていただきたい。それだけでございます」
静寂が流れた。やがて、御簾の向こうで衣の擦れる音がし、天子が深く、重い吐息を漏らした。
「氏治。……そして浪紫。朕は、請われれば官位を授けるだけの器であった。だが、そなたたちの清き志を聞き、初めて自らの意志で命じたいと思った。……この国は、あまりに長く、血を流しすぎた」
天子の声が、微かに震える。
「……命ずる。氏治よ。そなたの優しさをもって、この日の本を包み込め。浪紫よ。そなたの智恵をもって、万民が等しく陽光を浴びる世を築け。これは勅命ではない。……朕という一人の人間の、本心からの願いである」
(……ボトムアップの要望に対する承認じゃない。システムの根源から発せられた、魂のダイレクト・コマンド(直接命令)だ)
浪紫の視界が、少しだけ熱くなった。
「御意。……その願い、私のすべてを賭けて、形にしてみせます」
氏治が肩を震わせながら宣言をした。
浪紫は決意した。小田幕府は単なる武家政権ではない。天子を「現人神」へと近づけ、民の心の拠り所とする。現代日本人が知る、あの「敬慕の対象」としての天皇という形を、この戦国時代に前倒しで作り上げてやるのだと。
(……まずは御所の修繕予算を全額確保だ。それから、全国の民に『天子様があなたの幸せを祈っている』というメッセージを徹底的にブランディングする。権力は氏治が、権威は天子が。この究極のデュアル・システムこそが、日本を救う唯一の正解だ)
拝謁を終え、御所を出た浪紫の背筋は、かつてないほど真っ直ぐに伸びていた。




