第八十六話:幕引きのコンサルティング
京、二条御所。
かつての栄華を象徴する広間には、重苦しい空気が漂っていた。将軍・足利義昭の傍らには、剥ぎ取られようとしている特権を必死に守ろうとする側近たちが、浪紫を睨みつけて控えている。
「……小田の使いよ。石山を収めた勢いで、今度は余に将軍の座を降りよと申すか。左様な不忠、断じて許さぬぞ」
義昭の声は震えていた。それは怒りよりも、自身を支える最後の「名」を失うことへの恐怖に近い。側近たちも「公方様を蔑ろにするとは、武家の風上にも置けぬ!」と口々に同調する。
浪紫は、一歩も引かずに静かに微笑んだ。
(……やはりな。この連中にとって『将軍』という肩書きは、もはや実利を生む資産ではなく、サンクコスト(埋没費用)の塊だ。捨てれば無に帰すと怯えている。ならば、損切をさせるのではなく、より高値の銘柄へ乗り換えさせるまでだ)
「公方様。私は『降りろ』などと、無礼なことを申し上げに来たのではございません。むしろその逆。足利家が二百年かけて成し遂げられなかった天下静謐という宿願を、公方様の御代で完成させてはどうかと提案に参ったのです」
「完成……だと?」
義昭が眉をひそめる。浪紫は淀みなく言葉を重ねた。
「征夷大将軍とは、乱世を鎮めるための臨時の官職に過ぎません。今、公方様の名代たる小田氏治が天下を一つにまとめ上げようとしています。すなわち、将軍としての職務は、今この瞬間、歴史上初めて完遂されたのです」
浪紫の言葉には、刺すような鋭さではなく、相手を包み込むような甘い理があった。
「完遂された職務に、後任は不要です。氏治は将軍にはなりませぬ。公方様を最後にして、将軍という職を歴史の頂点に『永久欠番』として封印するのです。後世、人々は語るでしょう。『足利義昭こそが、乱世を終わらせ、将軍という役割を完璧に終えさせた唯一の御方である』と」
(……システムを完全にデリートするんじゃない。足利義昭というユーザーに『このゲームをコンプリート(完全攻略)したのは自分だ』という最高のユーザー体験(UX)を与えて、自発的にログアウトさせるんだ)
「……余が、最後で……最高の将軍……」
義昭の瞳に、見たこともない光が宿った。これまで無能だの、名ばかりだのと言われ続けてきた彼にとって、「歴史の完成者」という響きは、何よりも抗いがたい救いだった。
「公方様、どうかご自身の手で、新たな時代を開く『静謐宣言』をお書きください。それは敗北の記録ではなく、足利家が平和をもたらしたという勝利の証です。そして側近の皆様――」
浪紫は、青ざめていた取り巻きたちに向き直った。
「皆様には、新設される『武家故実典礼院』の長として、足利の格式と礼法を後世に伝える重責を担っていただきたい。戦に明け暮れる時代は終わりました。これからは皆様が、武家の誇りを司る王座に就くのです」
(……権力欲に憑かれたアドバイザー連中へのカウンター(対抗策)は、新たな既得権益の付与だ。政治という名の泥沼から、伝統という名の聖域へ、彼らの利権をリストラクチャリング(再構築)してやる)
側近たちの目から、敵意が消えた。彼らが恐れていた失職は、小田幕府における世襲の権威という、より安泰な椅子にすり替えられたのだ。
数刻後。氏治が静かに広間に入ってきた。彼は義昭の前に膝をつき、まるで父を慕う子のような温かな目で語りかけた。
「公方様。私は、公方様が将軍という重荷に苦しまれるお姿を見るのが、何より心苦しかったのです。どうかこれからは、私に面倒なことはお任せいただき、公方様は美しい京の月を愛で、豊かな時をお過ごしください。私が、公方様の名を汚さぬ世を作ってご覧に入れます」
氏治の、一点の曇りもない純粋な言葉。それが、義昭の胸に残っていた最後の意地を、優しく溶かしていった。
「……氏治よ。お前のような男を名代に持てたこと、余は……果報者であったな。……浪紫、紙と筆を持て。余が、この乱世の終止符を打ってやろう」
義昭の手によって、足利幕府の終焉と、小田家による新秩序への移行を記した「大政奉還」の書が、静かに書き上げられた。




