第八十五話:石山の再定義
石山本願寺の巨大な門が開いた。
現れたのは、武装を解き、白装束に身を包んだ門徒たち。その中心で、顕如が静かに口を開いた。
「門徒の衆よ、よく聞け。……これまで我らは、仏敵を討つと称して剣を取り、血を流してきた。だが、それは真の往生への道ではなかったのだ」
顕如の声が、静まり返った石山に染み通っていく。門徒たちは息を呑み、その言葉を一身に浴びた。
「我らの心に毒を吹き込み、信仰を戦の道具に替えた悪鬼は、既に滅んだ。……これより本願寺は、仏の慈悲を説く本来の姿に戻る。小田家はその歩みを助ける盾となると約束してくれた。これ以上の血はいらぬ。武器を捨てよ。阿弥陀仏の御前で、真に安らかなる地を共に築こうではないか」
門主自らの「悔悟」と「宣言」。その絶対的な権威による言葉に、門徒たちの間に張り詰めていた殺気が、涙と共に霧散(むさn)していく。
一方、その背後で不満を隠せない小田家の将兵たちに対し、浪紫は馬上で彼らだけに聞こえる冷徹な声を投げかけた。
「諸将、よく考えよ。……ここで彼らを皆殺しにすれば、天下に散る一向門徒は永久に我が小田家を呪い、各地で果てなき一揆の火種となろう。それは、殿が目指す天下静謐を遠ざける『負の遺産』でしかない」
浪紫の瞳は、感情を排した計数機のように冷ややかだ。
「ここで彼らを『生かして使う』。石山の富を小田の物流に組み込み、門徒を生産の担い手へと変える。それが、一兵も損なわずして最強の敵を無力化し、かつ富を永続させる唯一の道だ。……武功とは首の数ではなく、どれだけ強固な国を築いたかで測るものと心得よ」
顕如による心の救済と、浪紫による理の納得。
二つの異なる力が噛み合い、石山合戦という巨大な対立は、奇跡的な収束を見せたのである。
数日後。浪紫は本陣で休息を取っている主君・小田氏治に事の顛末を報告した。
「……というわけで、本願寺の武装を解除し、今後は仏事のみに専念するよう約させました。石山の地は、我が方の保護下で商いの中心地として再建いたします」
報告を聞き終えた氏治は、じっと地図を見つめていた。その瞳には、戦国大名としての鋭い光が宿っている。
「……浪紫、ようやったな。本願寺を皆殺しにすれば、一向一揆の種を天下にばら撒くことになっただろう。それを『仏道への回帰』という形で収めたのは、見事と言うほかない」
氏治は立ち上がり、浪紫の肩にどっしりと手を置いた。
「多くの者は、敵を滅ぼすことが強さだと信じている。だが、私はそうは思わん。戦わずして、敵を領民として抱きかかえることこそが、真の覇道だ。顕如上人も、心の底では血に汚れた今の姿に苦しんでおられたはず。お前は、本願寺という巨大な怪物を救ったのだな」
氏治の言葉には、数々の戦を潜り抜けてきた武将としての重みと、それゆえに平和を渇望する「お人好し」な本性が同居していた。
「ありがたき幸せに存じます、殿」
「ははは、硬いことは抜きだ。さあ、石山の連中が持ってくるであろう美味い酒を、領民みんなで飲める世を築いていこうじゃないか」
氏治の豪胆で温かな笑い声が、広間に響き渡る。
浪紫は、この主君だからこそ、自分の突飛な「最適解」が血の通った「政治」になるのだと、改めて確信していた。




