第八十二話:コンペティター
石山本願寺の内郭は、もはや極楽浄土の影も形もない。
浪紫の情報戦によって引き起こされた内紛は、溜まりに溜まった門徒たちの不満を爆発させ、あちこちで火の手が上がっていた。
「ここだ、浪紫殿」
霧が立ち込めるように現れたのは、真田の忍び――横谷左近である。彼の背後には、影のように数人の乱波たちが音もなく控えていた。
浪紫は、手にした懐鉄砲の感触を確かめ、喉の渇きを覚える。
「……あいつは、逃げずに待っているのだな」
「は。奥の書院、一帯だけが不気味なほど静まり返っておりまする」
左近の先導で、浪紫たちは血の臭いと硝煙が漂う廊下を突き進む。混乱を極める門徒たちの叫び声が遠ざかり、代わりに肌を刺すような冷徹な空気が満ちてくる。
その部屋は、寺院の奥深くには似つかわしくないほど、整理整頓されていた。
散乱する経典もなければ、豪華な装飾もない。ただ、機能的な文机と、壁一面に貼られた石山周辺の精密な海図や街道図。
「……遅かったな、零也」
部屋の中央、背を向けて座っていた僧衣の男が、聞き覚えのある声を上げた。
聞き覚えがある――それも、この戦国の世で聞いた声ではない。
浪紫の背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走る。
男がゆっくりと振り返る。
その顔には、石山を操っていた「九条」としての狡猾な笑みではなく、かつて東京の最上階の会議室で見せた、勝者の不敵な笑みが浮かんでいた。
「その声……まさか、九条……お前なのか」
「九条……お前に名を呼ばれるのも久しぶりだな。。だが、お前には前の社名で呼んでもらった方が通りが良いか。久しぶりだな、ライバル(競合相手)よ」
浪紫の脳裏に、封印していた「敗北」の記憶が鮮明に蘇る。
数年前、ある巨大インフラ事業のコンペティション。浪紫が心血を注ぎ、完璧な利益モデル(スキーム)を構築したはずのそれを、さらに上回る「冷徹なまでの効率化」と「他者を一切顧みない破壊的戦略」で粉砕した男。
九条と呼ばれた男は、僧衣の襟をくつろげ、椅子の背もたれに深く身を預けた。
「お前がこの世界に介入してきたとき、すぐに気づいた。この強引なまでの市場開拓(領土拡大)と、不合理を削ぎ落とす手法……。零也、お前のやり方は甘いんだよ。今も昔もな」
浪紫は、真田の忍びたちが武器を構えるのを手で制した。
これは、物理的な合戦ではない。コンサルタントとしての、生存を懸けたプレゼンテーションの延長戦だ。
「……なぜお前がここにいる。そして、何を企んでいる」
「企む? 心外だな。俺はただ、この不完全なOS(社会構造)を書き換えて、最高効率の国家を構築しようとしただけだ。顕如というカリスマをサーバーにして、門徒というリソースを動かす。順調だったんだよ、お前が現れるまではな」
九条の目が、鋭い光を帯びる。
「お前のせいで、俺の長期計画は大幅な修正を余儀なくされた。だが、それも今日で終わりだ。敗者は去る。それがコンペ(競争)の鉄則だろう?」
浪紫は静かに懐鉄砲を向けた。だが、指がわずかに震える。
相手は、自分がかつて完膚なきまで叩き潰された男なのだ。
戦国という名の盤面の上で、現代の英知を武器にした二人の『転移者』による、逃げ場のない直接対決の幕が上がった。




