第七十九話:防衛のグランドデザイン
氏治の意識は戻ったものの、その体は毒に蝕まれ、歩くことすらままならない。
「浪紫……。私が、皆の前に出ねば……」
「動かないでください。今の殿の仕事は、生きてそこに座っていること、それだけです」
浪紫は、震える手で刀を掴もうとする氏治を制し、本陣の天幕を勢いよく開いた。外では、顕如が放った数万の門徒たちが、「仏敵を討て」と狂信的な叫びを上げて迫っていた。
「菅谷殿、信繁殿! 予定通りの防衛計画に移行します。敵の数は多いが、その正体は恐怖に突き動かされただけの素人集団だ」
本陣に留まる天羽源鉄斎は、浪紫の隣で静かに地図を眺めていた。
「……浪紫殿、敵は我らの動揺を突くつもりか。だが、これほど整然とした布陣を前にしては、数だけでは押し切れまいな」
「ええ。源鉄斎殿、ここは戦に飢えた者たちに任せましょう」
浪紫が構築したのは、縦深陣地と呼ばれる多重の防衛線であった。
第一線では、真田の兵たちが仕掛けた落とし穴と逆茂木が、狂奔する一揆勢の勢いを削ぐ。
「放て!!」
菅谷政貞の号令とともに、小田の精鋭たちが放つ矢が雨あられと降り注ぐ。菅谷は主君を傷つけられた怒りを冷静な采配に変え、敵の突撃を一点に誘い込んだ。
そこへ、信繁率いる真田の遊撃隊が、浪紫の指示した急所へ正確に種子島を撃ち込む。
(……見ているか、影の男。お前の計算では、氏治様が倒れたことで小田軍はパニックに陥り、組織は瓦解するはずだった。だが、残念ながらこの組織の管理構造は、そんなに脆弱じゃない)
浪紫は冷静に、各部隊の消耗度を確認しながら、予備兵力をチェス盤の駒のように動かしていく。敵が一点に集中すればそこを避け、薄くなった側面を、菅谷の重装歩兵が確実に叩き潰した。
数時間に及ぶ激戦の末、小田軍の鉄壁の守りを崩せないと悟った顕如の軍勢は、じわじわと石山の方角へと引き込み始めた。
「追いましょう! 今こそ顕如の首を!」
血気盛んな若侍たちが叫ぶが、浪紫は本陣から鋭い指示を送った。
「追うな! 深追いは機会損失を増やすだけだ。今は敵を押し戻すだけでいい」
源鉄斎が静かに頷く。
「……賢明だな。石山の門まで迫れば、敵も死に物狂いになる。今は、主君の回復を待つのが最上よ」
「……ええ。今の我々の目的は、勝利ではなく『再生』です。氏治様が倒れたという動揺を完全に払拭し、次の一手で確実に息の根を止める。そのためには、今はあえて余裕を残しておく必要があるんです」
夕闇の中、退却する敵の背中を見送りながら、浪紫は傍らの真田昌幸に冷徹な声で告げた。
「昌幸殿。石山内部に、『主君を毒で狙う卑怯な術策は、信仰の道に非ず』という文を大量に打ち込んでください。……今度は、こちらからあいつの信頼性を削りに行きます」
浪紫は、傷ついた主君が眠る本陣を振り返った。
「……名も知らぬ影の男。君がどれだけ優れた策士でも、この時代の感情を読み違えれば命取りだ。きっちり損害賠償を請求させてもらいますよ」
小田軍の陣中、一筋の狼煙が真っ赤な空へと立ち上った。それは、最強の軍師・浪紫零也による、本格的な反撃開始の合図であった。




