第七十六話:見えざる指先
望月が持ち帰った「異質な男」の報告は、浪紫の脳内に冷たい警鐘を鳴らしていた。
(……やはりいたか。顕如を動かし、兵糧攻めを逆手に取って経済と病の罠を仕掛けた黒幕。俺と同じく、この世界の構造を理解し、最短距離で急所を突いてくる存在が)
浪紫は本陣で独り、思考の海に沈んでいた。まだ相手の名も、その目的すらも分からない。だが、相手が「自分ならどう動くか」を熟知していることだけは、望月の脱出行の不自然さから読み取れた。
「浪紫殿、氏治様が……氏治様が、前線へ向かわれましたぞ!」
天羽源鉄斎が、血相を変えて飛び込んできた。
「何ですって? 今はここから離れないようにと言ったはずですが!」
「それが、石山から逃げ出してきたという孤児たちが門前に溢れ……。氏治様は『病に怯えて見捨てることはできぬ』と、自ら握り飯を届けに……」
浪紫の背筋に、凍りつくような戦慄が走った。
最前線、石山を望む街道の入り口。
そこには、浪紫が構築した防疫の柵を超えて、十数人の子供たちが泣き叫んでいた。
「お腹が空いたよ……」「お母ちゃんが死んじゃった……」
その光景に、小田氏治の善良な心は耐えられなかった。
「案ずるな。今、皆に温かい飯を運ばせる。小田は決して、助けを求める者を見捨てはせぬぞ」
氏治が、護衛の制止を振り切って子供の一人に歩み寄った。その瞬間、子供の虚ろな瞳の奥に、幼子には似つかわしくない冷徹な光が宿る。
「……小田氏治。君のその脆弱性……、想定通りだよ」
子供が懐から取り出したのは、刃ではない。
九条が石山の地下で精製させた、揮発性の高い「毒性の粉末」を詰めた小瓶であった。
「氏治様、離れてください!!」
後方から浪紫が馬を飛ばして叫んだが、一歩遅かった。
子供が地面に叩きつけた小瓶が割れ、氏治の周囲に白濁した煙が立ち込める。
「――ごほっ、ごほっ! これは、何だ……?」
氏治が激しく咳き込み、その場に膝を突く。
物陰から、その様子を冷ややかに見つめる九条の影があった。彼は浪紫の姿を認めると、小さく一礼し、音もなく闇に消えていった。
「氏治様!!」
浪紫は落馬せんばかりに氏治の元へ駆け寄り、その体を抱きかかえた。
「……顕如じゃない。あいつだ……。あいつが、氏治様の『優しさ』を逆手に取って、最も確実に物語を壊しに来やがった……!」
浪紫の叫びは、戦場の喧騒に虚しく消えた。
氏治の顔色は急速に土気色へと変わり、意識を失っていく。軍師として、経営コンサルタントとして、あらゆる事態を予測してきた浪紫にとって、これほどまでに論理を嘲笑う理不尽な一撃は初めてであった。
「源鉄斎殿、信繁殿! 氏治様を本陣へ! 全力で解毒の手段を探すのだ!」
浪紫の眼鏡が、怒りと悔しさで激しく震えていた。
名も知らぬ「影の軍師」に対する、浪紫の初めての「敗北」であった。




