第七十五話:石山脱出、死影の追跡
「鼠が一匹、こちらを覗いておりましたな」
九条のその一言が、静寂に包まれた石山の深奥を、一瞬にして殺意の渦へと変えた。
「――仕損じたか!」
望月は即座に判断し、隠れていた天井裏から回廊へと躍り出た。次の瞬間、彼が潜んでいた場所を数本の火矢が貫き、激しい炎が上がる。
「逃がすな! 仏敵の放った間者だ、ここで仕留めよ!」
顕如の鋭い下知が飛び、石山の僧兵たちが怒号とともに押し寄せる。
迷路の陥穽
望月は懐から煙玉を取り出し、足元に叩きつけた。白煙が立ち込める中、彼は迷路のように入り組んだ本願寺の内部を、風のごとき速さで駆け抜ける。
背後からは、訓練された雑賀衆の銃声が響く。弾丸が望月の耳元を掠め、柱を砕く。
(……まずい。逃げ道が完全に読まれている!)
出口へと続く門はことごとく閉ざされ、まるで巨大な獣の腹の中に閉じ込められたかのような錯覚に陥る。これは単なる警備の厚さではない。九条が事前に構築していた「侵入者迎撃」の網であった。
「浪紫殿と同じ、あるいはそれ以上の盤面把握だ……。奴は何者だ!」
望月は壁を蹴り、僧兵の槍を紙一重でかわしながら、独り言を漏らす。
九条の冷徹な眼差し
回廊の角を曲がったその時、望月の前に一人の男が立ち塞がった。
追手ではない。先ほど顕如の傍らにいた、あの九条であった。彼は武器すら持たず、ただ冷徹な笑みを浮かべて立っている。
「真田の忍びか。君たちの主に伝えたまえ。この戦国の歴史を書き換えるのは、君たちの知る軍師ではない。この私だ、とな」
九条の手がわずかに動いた。その瞬間、望月の足元の床が抜け、巨大な落とし穴が口を開ける。
「――くっ!」
望月は空中で身を翻し、辛うじて穴の縁に指をかけた。
「……惜しいな。だが、君を逃がすのもまた、私の計算の内だ。浪紫に絶望を届けてもらわねばならないからね」
九条は追撃することなく、悠然と背を向けて立ち去った。その余裕こそが、望月にとって何よりの脅威であった。
夜明け前。満身創痍の状態で小田軍の本陣に辿り着いた望月は、待ち構えていた浪紫と昌幸の前に膝をついた。
「……申し訳ございませぬ。正体は見極められず……。されど、石山には『人ならざる理』を持つ男がおります。浪紫殿、あやつは貴殿と同じ、あるいは貴殿を超える怪物かもしれませぬ……」
望月の報告を聞き、浪紫は無言で眼鏡を押し上げた。その指先が、微かに震えているのを天羽源鉄斎は見逃さなかった。
(……やはり、俺と同じ『視点』を持つ者がいたか)
「望月殿、よくぞ生還されました。昌幸殿、至急、兵を再編してください。敵はもはや顕如だけではない。俺たちの定石が通用しない相手との、本当の化かし合いが始まります」
浪紫の瞳に、これまでにない鋭い光が宿る。石山の堅城を背景に、二人の「未来を知る者」による、目に見えぬ前哨戦の火蓋が切って落とされた。




