第七十三話:見えざる敵の輪郭(プロファイル)
羽柴秀吉の陣で発生した原因不明の高熱、そして商人の間で広まる「呪いの銭」の噂。これらは瞬く間に小田軍の士気を侵食し始めていた。
「浪紫殿、もはや神仏の加護を祈るしかございませぬか。兵たちは『仏罰』に怯え、武器を手にすることすら躊躇しております」
天羽源鉄斎が、焦燥の色を隠せず報告する。
だが、浪紫は動じなかった。彼は本陣に運び込まれた「呪いの藁」を、布越しに厳重に検分していた。
「……呪い、ですか。源鉄斎殿、この世に説明のつかない現象はありません。これはただの攻撃ですよ」
浪紫は直ちに「防疫」の体制を構築するよう、矢継ぎ早に指示を下した。
「全軍に布告。まず、流れ着いた物に素手で触れることを厳禁します。触れた者は直ちに焼酎で手を清め、衣服を煮沸すること。また、発熱した兵は専用の隔離陣地へ移し、他の者との接触を断ちなさい。これは呪いではなく、小さな『毒の虫』による病です」
現代の衛生概念を戦国風の言葉に置き換え、浪紫は軍の中に防壁を築き上げていく。
指示を終えた後、浪紫は再び独り机に向かった。
彼の脳裏には、拭い去れない疑問が渦巻いていた。
(……おかしい。顕如という男は確かに老獪だが、その策はあくまで宗教的な権威や武力に基づいたものだった。だが、今回の手口はどうだ?)
浪紫は地図に記された「銭の噂」の拡散経路と、疫病の発生地点を指でなぞる。
(噂の広め方が効率的すぎる。まるで市場の信頼性を意図的に破壊し、経済圏を崩壊させることを目的とした動きだ。さらに、この生物兵器まがいの戦術……)
浪紫は、ペンを握る手に思わず力が入った。
(顕如の裏に、誰かいる。それも、俺と同じ……いや、それ以上に現代的な思考回路を持った人間が。もしそいつが、この時代の歴史を意図的に歪めようとしているのだとしたら――)
「……野放しにはできないな。早急に特定する必要がある」
浪紫は密かに、真田昌幸を呼び出した。
「昌幸殿。石山の中に、顕如とは別に『言葉の通じぬ男』がいないか探っていただきたい。武家でも僧侶でもない、奇妙な風体や知恵を持つ男です」
「ほう、浪紫殿がそこまで警戒するとは。よほどの手練れと見えますな」
昌幸は不敵に笑い、闇の中へと消えた。
浪紫は夜空を見上げ、独り言を漏らす。
「顕如との決戦の前に、まずはこの不正侵入者を叩き出さなきゃならないか……。面白くなってきたじゃないか。この不条理(理不尽)な戦国時代で、誰が真の軍師か決めようじゃないか」
浪紫の眼鏡の奥で、静かな闘志が冷たく燃えていた。




