第七十一話:静寂の布石
石山本願寺、その最奥。顕如の傍らには、いつからか一人の男が影のように寄り添っていた。
名は九条。素性は一切不明ながら、その男は戦国時代の常識を逸脱した「未来の知識」を有していた。冷徹なまでの効率主義を貫き、宗教的情熱すらも計算の道具として扱うその姿は、ある種、浪紫と表裏一体の存在と言えた。
「顕如様。浪紫という男は、理で世を縛ろうとしています。ならば、その理の枠外から毒を注げばよいのです」
九条が差し出したのは、暗殺と流言を組み合わせた、相手の精神を内側から腐らせる策であった。
播磨の海を秀吉が封じ、石山本願寺への兵糧の道が完全に絶たれてから数日が経過した。
小田軍の本陣では、浪紫が卓上の地図を睨みながら、静かに情報の整理を行っていた。
(……補給路を断たれ、石山の備蓄は底を突き始めている。顕如ほどの男が、このまま座して死を待つはずがない。合理的に考えれば、次の一手は「盤外からの直接攻撃」……すなわち、俺の暗殺か)
浪紫は冷えた茶を啜り、眼鏡の奥で論理を組み立てる。刺客が来ることは、彼にとってすでに織り込み済みの事象であった。
「浪紫殿、少しは横になられては。各陣への指示は行き届いておりますぞ」
天羽源鉄斎が、傍らで声をかける。
「お気遣い痛み入ります、源鉄斎殿。ですが、敵が最後の手札を切る瞬間を見届けねば、枕を高くして寝るわけにはいきません」
浪紫は淡々と応じる。その表情には、焦りも恐怖も微塵もなかった。
深夜。本陣の篝火が、一瞬だけ不自然に揺れた。
天幕のわずかな隙間から、音もなく三つの影が滑り込む。彼らは本願寺が飼い慣らした、信仰のために命を捨てることを厭わぬ刺客たちであった。
「――そこまでだ」
刺客が刃を抜くよりも早く、背後の闇から真田信繁が姿を現した。彼は抜刀せず、槍の柄を用いて刺客の一人の手首を的確に叩き、毒を塗った短刀を地に落とさせる。
「騒ぐな。貴殿らの動きは、疾に浪紫殿に見透かされている」
同時に源鉄斎も太刀を抜き、退路を断つ。刺客たちは、自分たちが包囲網の中に自ら飛び込んだことを、その時になって悟った。
捕らえられた刺客たちが引き立てられていく中、浪紫は一度も椅子から立ち上がることなく、手元の帳簿に目を戻した。
「信繁殿、見事な捕縛でした。彼らの身柄は厳重に管理し、石山側への心理的な圧迫として利用しましょう」
「心得ました。それにしても、これほど鮮やかに誘い込めるとは」
信繁が感嘆の声を漏らし、源鉄斎と共に後始末のために天幕を出ていく。
一人残された陣の中で、浪紫は深く溜息をつき、ようやくペンを置いて顔を覆った。人前で見せていた冷静な軍師の仮面の下で、抑えていた不快感が漏れ出す。
「……顕如、これほどの劣勢でまだこんな古典的な『バグ』(不具合)を差し込んでくるか。自分の無策を棚に上げて、物理的な消去で解決しようとするとは……。本当に、反吐が出るほど非効率な『マネジメント』(管理運営)だ」
独り言に混じるのは、この時代の人間には到底理解し得ない現代の概念。
浪紫は眼鏡を拭き直し、冷徹な瞳で再び地図を見据えた。
「もはや慈悲は不要。明朝より、総力をもって石山の外郭を包囲します。一気に引導を渡しましょう」




