第六十九話:胃袋の理、狂信を解く
尾張から美濃にかけての街道は、かつての活気を失い、殺伐とした熱気に包まれていた。
そこには、竹槍を掲げ、「南無阿弥陀仏」の合唱と共に押し寄せる一向一揆の群れと、それを阻む柴田勝家の軍勢が対峙していた。
「ええい、斬っても斬っても湧いてきおる! 顕如の毒はこれほどまでか!」
勝家は苦渋に満ちた表情で、馬上で歯噛みした。
目の前にいるのは訓練された兵ではない。昨日まで田畑を耕していたはずの民だ。彼らは「仏敵を討てば極楽浄土へ行ける」という顕如の言葉を信じ、死を恐れず槍の林に飛び込んでくる。
「柴田様! 浪紫様より届いた特効薬にございます!」
混乱する戦線の後方から、一騎の伝令が声を張り上げた。続いて現れたのは、戦には不似合いな、荷を山積みした巨大な車列。それを引くのは、浪紫の指示を受けた商人の一団であった。
「浪紫殿の薬だと? この窮地に算盤を持ってきたか」
勝家が怪訝な顔で指し示された荷車を見ると、そこには武器ではなく、数えきれないほどの「塩」と「味噌」の樽、そして干し魚や米が積まれていた。
(……一向宗の結束は、外部からの『抑圧』によって強まる。ならば、抑圧ではなく『生存の保障』という名の懐柔を行う。腹が満たされ、明日への安心が約束されれば、狂信という名の『暴走』は自然と収まるはずだ)
浪紫が授けた策は、至極単純かつ冷徹なものであった。
「……皆の者、聞けッ!」
勝家は大音声を響かせ、一揆勢に向かって吠えた。
「顕如は極楽へ行けると言うたか! だが、浪紫殿は『今、ここで食わせる』と仰せだ! この塩も味噌も、小田に従う者にのみ分かつ! 泥水をすすって死ぬか、塩の効いた粥を食って生き延びるか、今すぐ選べ!」
騒然としていた民の動きが、一瞬で止まった。
彼らの多くは、顕如の扇動に加え、戦乱による物流の断絶で、今日食うものにも困っていたのだ。荷車から漏れる味噌の芳醇な香りと、輝く白塩の山。それは、見えぬ極楽よりも遥かに力強い「生」の誘惑であった。
「……塩だ。本物の塩が、あんなにあるのか」
「顕如様は、戦えば救われると言われたが……」
一人、また一人と竹槍を落とし、荷車の方へと這い寄る者が出始める。一向一揆という名の強固な壁が、浪紫の用意した「胃袋への訴求」によって、音を立てて崩れ始めていた。
(……人は理屈だけでは動かないが、欠乏には勝てない。顕如が魂の救済という名の『仮想現実』を売るなら、俺は物理的な利益で市場を奪い返す。これが俺流の『改宗』だ)
「……槍を捨てよ! 小田は、今日を生きる糧を約束する!」
勝家の叫びが響き渡る中、街道を埋め尽くしていた門徒たちの波に、劇的な変化が起きていた。
先ほどまで殺気立っていた民たちが、浪紫の用意した荷車の周りに集まり、配られた塩を指で舐めては、涙を流して震えている。
「本物の塩だ……。これがあれば、村の皆も助かる」
「顕如様は『死して仏に』と仰ったが、浪紫様は『生きて小田の民になれ』と仰るのか……」
狂信という名の熱病は、圧倒的な「現実」という冷水によって急速に冷まされていった。
(……人は、極限状態になればなるほど、目に見えない救済に縋る。だが、その依存から脱却させる唯一の手段は、生存の不安を取り除くことだ。顕如が人心を『乗っ取った(ハッキング)』なら、俺は彼らの生活基盤を再構築して『上書き(オーバーライド)』する。これこそが、戦国における本当の調略だ)
勝家は、武器を捨てて泥を払う民たちの姿を見て、ふっと息を吐いた。
「浪紫殿……。力でねじ伏せるだけが戦ではないと、また教えられたわい」
尾張・美濃の一向一揆は、一滴の血も追加で流れることなく、塩と味噌、そして浪紫の合理的な計算によって霧散していった。顕如の放った「情報の毒」は、浪紫の「物流の薬」によって解毒されたのである。




