第六十八話:砂上の楼閣、顕如の謀略
備前での吉川元春との和議を終え、京の二条御所へ戻った浪紫を待っていたのは、祝杯ではなく、各地から届く不穏な報せの山であった。
御所の一室。浪紫は届いた文を一つずつ精査していた。その横には、浪紫の描く複雑な構想を即座に実務へと翻訳する男――羽柴秀長が控えている。
「浪紫殿。播磨、伊勢、そして尾張の一部までもが、急速に本願寺の色に染まっております」
秀長の言葉は静かだが、その内容は深刻であった。
「……顕如か。あの男、こちらの新秩序が根付く前に、システムの根幹を揺さぶりに来たな」
(……石山本願寺。宗教という名の『独占基盤』を握っている連中は、道理が通じないから厄介だ。奴らが流しているのは、俺が仏敵であるという虚報。これによって各地の物流が滞っている。これは精神的な『経済封鎖』だ)
浪紫は思考を切り替え、秀長に向き直った。
「秀長殿。各地の寺内町が門徒を煽り、荷の流れを止めているのは明白です。奴らは、我らが土地の理を正そうとするのを、『信心を汚す掠奪』だと民に吹き込んでいます」
「左様にございます。特に北条氏政殿が不穏な動きを見せております。一向宗とは相容れぬはずの北条までもが、土地の検分を嫌い、顕如と裏で通じているとの噂が絶えませぬ」
「保守的な連中と宗教家が手を組んだわけですか。……面白い。秀長殿、すぐに各地の将に伝令を。真田親子には信濃の国境で北条を牽制させ、柴田勝家殿、羽柴の兄上には各地の一揆を鎮めるようお伝えください。ただし、武力で殲滅するのではなく、彼らの『生活』を握るのです」
「生活を、でございますか?」
「ええ。腹が減れば念仏も力を失います。我らが止まった荷を動かし、民に食い扶持を与えれば、顕如の言葉はただの空念仏に変わります」
(……『情報の管理』への対抗策は、圧倒的な『現実の利益』だ。顕如が恐怖を売るなら、俺は安心を売るまでだ)
一方、信濃の北端、鳥居峠。
そこには、真田昌幸が率いる精鋭と、同盟の義務を果たすべく進出してきた北条氏政の大軍が対峙していた。
氏政が重い腰を上げたのは、浪紫が送った一通の書状による。そこには、同盟の盟約に基づき、信濃の治安維持を名目とした『共同出兵』の要請が記されていた。
「北条の武威を天下に示す好機なり。もしこれに応じぬは、小田家への違約と見なす」
事実上の動員命令に対し、氏政は内心の不満を押し殺し、大軍を動かさざるを得なかったのだ。
「父上、北条勢は我らの動きを警戒し、国境から一歩も動けぬ様子。浪紫殿の読み通りにございますな」
次男の信繁が、整然と陣を敷く北条の「三つ鱗」の旗印を見下ろしながら呟いた。昌幸は不敵な笑みを浮かべ、軍配を膝に打つ。
「北条殿も形の上では小田家に従う身。浪紫殿の書状一つで、こうして信濃まで引きずり出されたわけだ。だが、腹の中では一向宗の蜂起に乗じ、我らの隙を窺っておる」
昌幸に課せられた任務は、この「動員されたが、隙あらば牙を剥きかねない大軍」を、戦わずしてこの地に釘付けにすることであった。
「信繁、例の『もてなし』を始めよ。北条の物見には、我が軍が十倍、二十倍の兵力を隠し持っているように見せつけるのだ」
「はっ。旗印を倍に増やし、夜通し篝火を焚かせます」
昌幸は、浪紫が以前語っていた言葉を思い出していた。
(……真田殿。北条家は安定を尊ぶ巨大な組織だ。不確定要素を嫌う氏政殿のような方には、こちらがどれだけ底知れぬ戦力を隠し持っているかという『情報の揺さぶり(アンサーティー)』を与えるだけでいい。動くに動けない状況を維持する、それが最大の防御になる)
「浪紫殿も人を喰った策を出しおる。だが、この昌幸、その手の悪巧みは嫌いではないぞ」
真田軍の陣中から、突如として無数の鬨の声が上がり、山々に反響する。北条の陣営では「真田はどこまで伏兵を隠しているのか」と動揺が広がり、氏政殿は慎重さゆえに、一歩も兵を動かすことができなくなっていた。




