第六十七話:算盤の檻と猛将の矜持
「追え! 菅谷を逃すな!」
元春の咆哮と共に、毛利勢は港の奥深くへと突き進む。だが、そこは浪紫が数理的に導き出した「機動力の死地」であった。
左右を強固な石垣に挟まれた狭隘な路地。前方には大量の「火薬の空箱」が積み上げられ、菅谷政貞の軍が手ぐすね引いて待ち構えている。
「射てッ!」
政貞の合図で、石垣の上から一斉に火縄銃が火を噴いた。だが、その弾丸は元春ではなく、彼の足元の地面と、背後の退路を遮断するように配置された木柵を粉砕する。
「……ぬかせ! この程度の小細工、力で押し通るまで!」
元春が大太刀を構えたその時、前方から静かな、しかしよく通る声が響いた。
「吉川殿。そこから一歩でも進めば、貴公の命ではなく、毛利の『名』が地に落ちることになりますぞ」
石垣の上、煙の向こうから現れたのは、戦場には不似合いな薄衣を纏った浪紫であった。
浪紫の王手:情報の包囲網
「浪紫……! 貴様、戦場の作法を知らぬ算盤坊主が、何を抜かすか!」
「作法、ですか。ではお教えしましょう。貴公がこの港を壊し、菅谷殿の首を取ったところで、瀬戸内の米相場は変わりません。むしろ、毛利が『民の食を奪う略奪者』であるという文が、すでに京から西国まで一斉に飛ばされています」
(……吉川元春。あんたは強い。だが、今の時代、武力行使の結果は『世論』によって書き換えられる。あんたが勝てば勝つほど、毛利は天下の敵として認識されるように、俺が『広報』を済ませてある)
浪紫の背後から、さらに数名の商人が現れた。彼らは毛利家と古くから取引のある豪商たちだ。彼らの顔を見た元春の顔に、初めて動揺が走る。
「元春様、もうお止めくだされ。これ以上戦を続ければ、我ら商人は毛利家との縁を切らねばなりませぬ。小田様は、我らへの利を約束してくださっております」
「……貴様ら、毛利を裏切るというのか!」
「裏切りではございません。我らは『生きていく道』を選んだまで」
元春は歯噛みした。目の前の菅谷政貞は、傷つきながらも不敵に笑い、槍を構え直している。そして頭上からは、浪紫が冷徹な計算に基づいた「敗北の定義」を突きつけてくる。
「……吉川殿。殿、小田氏治様は貴公の武勇を惜しんでおられる。この港の半分を、毛利の管理に委ねてもよいと仰せだ。ただし、小田の『物流の法』に従うことが条件ですが」
力で勝っても、名誉と経済で負ける。元春にとって、これほど屈辱的な状況はなかった。だが、彼はただの猛将ではない。毛利を支える重鎮として、家の存続を秤にかける冷静さも持っていた。
「……浪紫と言ったか。貴様、戦を何だと思っている」
「……ただの『資源配分』ですよ。誰も死なさず、誰もが納得する落とし所を探る、極めて合理的な仕事です」
元春は天を仰ぎ、大太刀を鞘に収めた。
「菅谷政貞。貴殿のような漢が、あのような冷徹な男の下に就いているとは……。天下も変わったものよ」
「……はは、全くだ。だが、あの男の言う『戦なき世』というのも、悪くないと思わせる何かがあるのだ」
備前の激突は、武力による殲滅ではなく、浪紫の「経済外交」という名の実質的な降伏勧告によって幕を閉じた。




