第五話:情報の種、信頼の芽
上杉の斥候を追い払った翌朝、砦の空気は幾分か和らいでいた。
村人たちが密かに運び込んだ米や味噌のおかげで、兵たちの顔にも血色が戻っている。だが、浪紫の表情は晴れない。
「小田殿、昨日の勝利はあくまで局地的なもの。上杉の本隊が動けば、この砦など一日も持ちません」
浪紫は、板の間に広げた常陸の白地図を見つめていた。
「……浪紫殿。そう厳しい顔をなさるな。米が食えるようになっただけでも、わしには天の助けに思えるがの」
氏治は、湿原を歩き通して傷んだ自身の足をさすりながら、のんびりと答えた。馬一頭連れぬ過酷な敗走であったが、この男の楽観さは失われていない。
「だからこそ、今のうちに『仕込み』が必要です」
浪紫は、懐から一円玉を取り出し、氏治の目の前に差し出した。
「これは、私の故郷でコインと呼ばれる、価値を示す印です。小田殿、これをご覧になってください。この小さな印に刻まれた精緻な細工、そしてこの軽さ。これほどの物を作る術を持つ国から、私は参りました。私が提案する策も、この印と同じく、一見小さく見えても確かな理に基づいたものです」
氏治はそれを手に取り、太陽の光に透かしてまじまじと見つめた。
「ほう……。なんとも不思議な手触りだの。この細かな文様、京の職人でもこれほど見事なものは作れまい。浪紫殿、お主の国というのは、よほど進んだ術を持っておるのだな」
氏治の瞳に、浪紫に対する単なる好奇心を超えた、一種の畏怖に近い敬意が宿った。浪紫はその反応を確認し、印を地図上の一点――小田城へと置いた。
「戦は刀だけで行うものではありません。城を奪還するには、まず敵の城内を『不全』に陥らせる必要があります」
「ふぜん……? また難しい言葉を使う。城の中を病気にでもさせるというのか?」
「似たようなものです。まずは、村人たちを通じて小田城下へ『噂』を流します。昨日の呪いの話に尾ひれをつけ、小田家には姿なき軍師がつき、上杉の将兵を内側から蝕むという恐怖を植え付けるのです」
浪紫は一呼吸置き、氏治の隣に控える菅谷政貞に視線を向けた後、改めて氏治に向き直った。
「小田殿、菅谷殿に命じていただけませんか。家臣の中から、商人に化けられる者を数名選んでいただきたいのです。彼らに、村から集めた僅かな特産品を持たせ、城下の市場へ送り込みます」
氏治は頷き、「政貞、浪紫殿の言う通りにせよ」と短く命じた。主君の命を受け、政貞は「はっ」と応じたものの、その目はまだ浪紫を値踏みするように鋭い。
「密偵を放つというのか。だが、そのような小細工で城が落ちるとは思えん」
「単なる密偵ではありません。彼らには『情報の買収』を行ってもらいます。城内の上杉勢が何を欲しているか、どこに不満を持っているか。そして何より、城の守りの要が誰であるか。それらを、物資と引き換えに仕入れてくるのです」
浪紫は、地図の上に置かれた「コイン」を指で示した。
「敵を力で屈服させるのではなく、敵が自ら城を空けたくなるような、あるいは城を守るのが嫌になるような状況を作り出す。これが、私の提言する『費用を抑えた奪還作戦』です」
氏治は、浪紫の置いた印をもう一度指で弾き、楽しそうに笑った。
「浪紫殿。お主のやることは、戦というよりは、まるで商いの駆け引きのようだが……。この見事な印を作れる者の知恵ならば、あながち夢物語とも思えぬ。政貞、浪紫殿の言う『仕込み』とやら、預けてみようではないか」
その日の午後、浪紫の指示を受けた「行商人」たちが、城下へと向かっていった。
浪紫は、砦の縁側に腰掛け、現代の服の袖を捲り上げた。
(……一円玉の精緻さが、そのまま私の言葉の信憑性になったか。この男の直感、侮れんな)
だが、その頃、小田城内には上杉家の智将が、村で起きた不審な事件の報告を冷徹な目で見つめていた。




