第四十七話:情報の汚濁(おだく)
境川を挟んで対峙する両軍。だが、小田軍を包囲しているのは、織田の正規兵だけではなかった。
「浪紫殿、見てくだされ。あちらの村々からも、手に手に鎌や竹槍を持った民が集まってきておる。……皆、我らを憎悪の目で見つめておるぞ」
源鉄斎が、苦々しげに周囲の丘を指差した。
浪紫は眼鏡を指で押し上げ、その「敵意の正体」を冷静に分析していた。
信長が流した偽の御内書。「小田が京を焼き払い、民を根絶やしにする」という扇動は、驚くべき速さで尾張の末端にまで浸透していた。
「信長殿による、情報の汚染……。こちらの『善性』という最大の武器を、見事に封じられましたね」
(……さすがは魔王だ。正面から大筒とぶつかるリスクを避け、こちらを『公敵』に仕立て上げることで、防衛コストを民衆に肩代わりさせたわけか)
そこへ、小田氏治が顔を青くして駆け寄ってきた。
「浪紫、どういうことだ! 私たちは民を救うために来たのに、なぜ彼らはあんなに怒っているのだ? 私は……私は、彼らと戦いたくなどない!」
氏治の悲痛な叫びに、浪紫は心を痛めつつも、非情な決断を迫られていた。
「殿、案じ召されるな。……これこそが、織田信長という男の戦い方にございます」
一方、織田軍の本陣。
信長は、南蛮渡りの椅子に深く腰掛け、戦況を見下ろしていた。
「サル。小田の動きはどうだ」
信長が声をかけると、羽柴秀吉が揉み手をしながら歩み寄った。
「はっ、信長様! 浪紫なる者、さすがに困り果てている様子。民を殺せば『義』が崩れ、殺さねば進軍が止まる。まさに、ぬかるみの中で足を取られたようなものにございます」
「キンカンはどうした」
「光秀殿は、背後の義昭公を抑えるべく、既に京への路を封鎖しておりまする。タヌキに裏切られかけたとあっては、光秀殿も必死にございますな」
信長は、手元の扇子で膝を叩いた。
「……浪紫よ。理で勝てると思うたか。余は、理の外側にある『情』さえも、仕組みとして使いこなすぞ」
小田軍の本陣では、焦燥が極限に達していた。
前方の柴田勝家軍が、包囲を縮めるべく重厚な足取りで前進を開始する。同時に、背後の民衆たちが一斉に法螺貝を吹き鳴らした。
「源鉄斎殿、連射大筒はそのまま待機。民衆には一発も撃ってはなりません」
「だが浪紫殿、このままでは揉み潰されるぞ!」
「……賭けに出ます。情報の嘘を暴くには、言葉ではなく『体験』をぶつけるしかない」
浪紫は、全軍に武器を収めるよう命じた。そして、氏治を先頭に、あえて無防備な陣形へと組み替えさせたのである。
(……信長殿。あんたが『情』を仕組み(システム)にしたと言うなら、俺はその仕組みを、もっと大きな『信頼』で上書き(オーバーライド)させてもらう!)
一触即発の戦場に、浪紫の静かな、だが確固たる意志が響き渡ろうとしていた。




