第四十六話:京の火種、織田の罠
尾張に緊張が走る中、京の二条御所でもまた、一人の男が野心に瞳をぎらつかせていた。
室町幕府第十五代将軍、足利義昭である。
「……見たか。小田が三河を抜いたぞ。家康を、あの織田の犬を屈服させたのだ!」
義昭は、浪紫宛に送った密書の写しを握りしめ、側近に笑いかけた。
「信長は余を傀儡と侮っておるが、小田がこのまま尾張を蹂躙し、京へ駆け上れば、真の天下の主が誰かを知ることになろう。今こそ各地の諸大名に、小田に呼応せよと御内書を出すのだ!」
義昭は、小田を自らの権力を取り戻すための「便利な駒」として見ていた。しかし、その「駒」を動かす指先が、既に信長の網に絡め取られていることには気づいていなかった。
その数日後。安土城の信長のもとに、義昭が各地へ放った密使の首と、没収された御内書の数々が届けられた。
「……公方様も、相変わらずお人が悪い」
信長は、没収した書状を焚き火の中に放り込んだ。青白い炎が、義昭の野心を焼き尽くしていく。
「サルよ、これを利用せぬ手はないな」
影から現れた羽柴秀吉が、猿のような笑みを浮かべて平伏した。
「はっ。将軍家が小田を招いているという『事実』を逆手に取り、小田を『京を奪わんとする大逆の徒』に仕立て上げまするか?」
「それだけでは足りぬ。浪紫という男、道理を重んじる。ならば、その道理を汚してやるのだ」
信長の策は、冷徹を極めていた。
義昭が小田に宛てた「新たな密書」を偽造し、わざと小田軍に届くように手配したのだ。そこには、信長を討った暁には京の町を焼き、逆らう民を根絶やしにせよという、残虐極まる「将軍の命」が記されていた。
これを受け取れば、小田軍は「義軍」ではなく「虐殺を命じられた賊軍」としての立場を迫られる。また、同時にこの偽書の内容を町々に触れ回ることで、小田への期待を「恐怖」へと塗り替える――情報の汚染である。
尾張・境川のほとりに陣を敷く小田軍の本陣。
浪紫は、届けられた「将軍からの新しき密書」を読み、眉間に深い皺を刻んだ。
「……源鉄斎殿、これは臭いますね。あまりに出来すぎている」
「何がだ。将軍家が我らに気合を入れようとしているだけではないのか?」
浪紫は密書の紙質と、その文言の「攻撃性」を分析した。
「いいえ。この文面、これまでの義昭公の慎重な言い回しとは異なり、あまりに煽情的すぎる。……これは、こちら側の『大義』という名のブランドを破壊するための罠です」
(……信長は、俺たちの『評判』を直接攻撃してきたか。こちらを悪役に仕立て上げ、尾張の民や土豪を完全に敵に回すつもりだ。情報の非対称性を利用した、見事なネガティブキャンペーンだな)
浪紫が分析を終える間もなく、対岸の織田陣営から、地を揺らすような法螺貝の音が響き渡った。
正面には柴田勝家の精鋭。そして、周囲の村々からは、偽の噂を信じ、竹槍を手にした農民たちの群れ(一揆勢)が、小田軍を包囲するように集まり始めていた。
「殿を守れ! これは単なる合戦ではない、信長による『世論の包囲網』だ!」
浪紫の叫びと共に、尾張決戦の第一幕が、最悪の形で幕を上げた。




