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第四十五話:尾張の静寂、安土の熱

三河・浜松の地で、徳川家康が「敗北」を認めたという報せが安土城に届いたのは、その日の深夜であった。

 安土城、天主の一室。

 蝋燭の火がゆらめく中、織田信長は届けられた密書を黙って見つめていた。その背後には、濃姫(帰蝶)が静かに控えている。

「……家康が、城を空け、みちを譲ったか」

 信長の声は、怒りよりもむしろ、深い関心に満ちていた。

「左様にございます。報告によれば、戦わずに屈したのではなく、一度は決死の覚悟で撃って出たとのこと。されど、小田の参謀・浪紫なる者に、言葉を、そしてを封じられたようにございます」

 跪いて報告するのは、織田家の諜報を束ねる者であった。

 信長は立ち上がり、欄干から暗闇に沈む琵琶湖を見下ろした。

「理を封じるか。面白い。家康のような律儀な男を動かすには、武力以上の何かが必要だ。……浪紫、零也といったか。あの男、ただの軍師ではないな。余と同じく、この世を『仕組み』として見ておる」

 信長の手元には、これまでの小田軍の戦いの記録が詳細にまとめられていた。

 北条の城を内側から崩し、佐竹・里見を戦わずして呑み込み、そして武田の最強兵を火力の壁で粉砕した記録。

「小田の戦い方は、常に一点を突いてくる。相手が最も大切にする『価値』を無効化し、その基盤を奪う。……あ奴らは、戦をしておるのではない。既存のことわりを塗り替えておるのだ」

 信長は、傍らの地図を指で叩いた。

「家康が譲ったことで、三河から尾張への『物流の門』は開いた。奴らは必ず、余が築いたこの尾張の経済網を狙って来る。余の『楽市楽座』こそが、小田にとっては最大の攻撃目標となろう」

 信長の指示は迅速であった。

 即座に尾張、美濃の各所に伝令が飛び、町々には厳重な警戒態勢が敷かれた。しかし、信長は町を閉ざすことはしなかった。

「町を閉ずれば、余の理が負けたことになる。小田が来ても、市は開け。ただし、小田の息がかかった商人はすべて捕らえ、その荷を検めよ。奴らの『毒(経済的依存)』が我が領内に浸透する前に、逆にこちらが奴らの喉元を食い破る」

 安土の城内では、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀といった重臣たちが集められ、かつてない緊張感に包まれていた。

「家康殿を退かせた相手……。我ら織田の精鋭でも、正面からは危ういかもしれぬ」

 秀吉の言葉に、柴田勝家が机を叩いた。

「馬鹿を申せ! 猿、三河武士が不覚を取ったからとて、我ら尾張・美濃の武者が引けるか!」

 織田陣営は、小田を「未知の脅威」として完全に認識した。信長は小田の「連射大筒」に対抗するため、国友の鉄砲鍛冶にさらなる改良を命じ、同時に、小田軍が依存する「薬水」や「補給」の経路を断つための「焦土戦術」さえも視野に入れ始めていた。

 一方、尾張の町々では、小田軍接近の噂が広まり、動揺が走っていた。

「小田が来れば、税がなくなるらしいぞ」「いや、あ奴らは妖術で人心を操ると聞いた」

 期待と恐怖が入り混じる中、ついに尾張・境川の向こう岸に、小田軍の先陣が現れた。

 浪紫の眼鏡が捉えたのは、城壁のような防御陣地ではない。

 整然と並び、かつ、隙間なく小銃を構えた織田の鉄砲隊。そして、その背後で静かに、だが確実に小田軍の動向を監視する、信長の「冷徹な意志」であった。

(……やはり、三河とは違う。信長は既に、俺たちの『ビジネスモデル』を解読しようとしている。ここからは、どちらの論理システムがより強固か、殺し合いの検証が始まるわけだ)

 浪紫の脳内で、対・織田戦の第ゼロ次シミュレーションが、赤い警告灯と共に激しく回り始めた。

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