第四十四話:不文律の再定義
鳴り響く怒号と剣戟の音。その中心で、浪紫と徳川家康は至近距離で対峙していた。
「契約だと……? 狂うておるか。この期に及んで、商人のような口を!」
家康の背後で、本多忠勝が蜻蛉切を握り直す。その殺気は、浪紫の肌を刺すほどに鋭い。
「商人ではありません、コンサル……いえ、軍師としての提案です」
浪紫は、あえて馬から降り、地面に足をつけた。丸腰であることを示し、家康の「義」に訴えかける。
「家康殿。貴殿が信長殿との約束を重んじ、死を賭して撃って出た……その事実は、既に天下に示されました。これ以上、兵を死なせるのは『忠義』ではなく、単なる『資源の浪費』にございます」
浪紫は懐から、もう一通の書状を取り出した。それは足利義昭の密書ではなく、白紙の書状に小田氏治の判を押したものである。
「ここに、徳川殿が望む『落とし所』を書き入れてください。形式上、徳川軍は小田軍に敗れ、浜松城へ撤退した……。だが小田軍は三河を占領せず、ただ『素通り』する。その見返りに、徳川家は織田家に対し『全力を尽くしたが防ぎきれなかった』と報告するのです」
(……いわゆる『敗北の演出』だ。家康の面子を保ちつつ、信長への言い訳を作り、なおかつ小田の進軍速度を維持する。これが三河における最適解だ)
家康は、浪紫が差し出した白紙をじっと見つめた。
三河武士の矜持は、一度死を覚悟したことで満たされている。だが、このまま全滅すれば三河の民は路頭に迷う。浪紫の提案は、家康が抱える「信長への義」と「民への愛」の、ギリギリの均衡点を突いていた。
「……浪紫殿。貴殿は、人の心を秤にかけておるのだな。それも、恐ろしく正確な秤に」
家康は刀を鞘に収めた。
「忠勝、引け。……我らは小田の『妖術』に敗れたのだ。これ以上は、犬死にに過ぎぬ」
「家康様! しかし……!」
「引けと言った。……これより、我らは城に籠もる。小田軍が三河を通り過ぎるのを、ただ見ているしかあるまい。……それが、三河を救う唯一の道よ」
家康は浪紫を一瞥し、馬を返した。
戦場に、にわかに静寂が戻る。浪紫は深く息を吐き、膝の震えを必死に抑えながら眼鏡を拭いた。
(……九死に一生、か。感情という変数は、やはり計算しきれないな。だが、これで尾張への道は、文字通り『フリーパス』になった)
小田軍は、傷ついた兵をまとめ、再編を急ぐ。
その視線の先には、ついに織田信長が待つ、尾張・美濃の国境が迫っていた。




