第四十二話:三河武士の矜持(きょうじ)
浜松城に戻った徳川家康を待っていたのは、安土からの「熱」を帯びた一通の書状であった。
そこには、足利義昭を「悪しき先例」と断じ、小田を「天下の静謐を乱す賊」と断罪する、織田信長の苛烈な文言が並んでいた。
『家康よ、三河の地を血で染めてでも小田を止めよ。さもなくば、貴殿も同罪とみなす』
それは、単なる命令ではない。長年、辛苦を共にした同盟者からの「踏み絵」であった。
「……信長殿」
家康は書状を握りしめ、震えた。
浪紫が提示した未来の豊かさ、氏治が示した善性。それらは確かに正しい。だが、家康という男の根幹にあるのは、絶望的な窮地で自分を助け、共に歩んできた信長との「信義」であった。
「浪紫殿の理屈は正しい。……だが、道理で動けぬのが、人の業というものよ」
翌朝。小田軍が「黙認」を前提に、無警戒で徳川領内の移動を開始したその時であった。
「報告! 後方より徳川軍、本多忠勝を先頭に突撃して参ります! その数、五千!」
物見の悲鳴のような叫びが、浪紫の陣に響いた。
「何だと……!?」
浪紫は眼鏡を叩き直した。
視界の先、砂煙を上げて迫るのは、昨日まで菓子を食っていたはずの三河兵たちである。彼らは「義」に殉じるため、勝ち目のない戦いへ、ただ主君の命に従い、死兵となって突っ込んできた。
「源鉄斎殿! 迎撃を!」
「間に合わん! 奴ら、最初から退路を断って突っ込んできておるぞ!」
源鉄斎が怒号を飛ばす。小田軍の連射大筒は、行軍の隊列の中。展開するには時間がかかる。
(……くそっ、計算が(バグった)! 合理性を超えた『信仰』に近い忠誠心。これこそが徳川家康の、マニュアル(戦術書)にない隠しパラメータか!)
先頭を走る本多忠勝の「蜻蛉切」が、小田軍の防衛線を紙のように切り裂いていく。
浪紫の脳裏に、かつてない焦燥が走る。このままでは、中央にいる氏治の首にまで刃が届きかねない。
「全軍、陣形崩壊を厭うな! 殿を……氏治様を守れ!」
浪紫は、初めて自ら刀を抜き、馬を蹴った。合理主義者の彼が、最も嫌うはずの「泥臭い乱戦」の中に、自ら飛び込まざるを得なくなったのである。




