表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/107

第四十一話:不戦の誓約(ふせんのせいやく)

長い沈黙が、会談所の畳を重く押さえつけていた。

 家康の傍らに控える本多忠勝ほんだ ただかつが、腰の「蜻蛉切とんぼぎり」の柄に手をかけ、殺気を放つ。だが、浪紫はしは微動だにせず、ただ家康の瞳を真っ直ぐに見つめ返していた。

 その時、それまで静かに茶を啜っていた小田氏治うじはるが、ふわりと口を開いた。

「家康殿、私は難しいことは分からぬが……。貴殿の家臣たちが、私の出した干し菓子を『旨い、旨い』と食べておるのを見た。……それで良いのではないか?」

 氏治は屈託のない笑みを浮かべた。

「皆、腹が減っては戦もできぬし、旨いものを食えば自然と笑みがこぼれる。私は、三河の民も、我ら小田の民も、同じように笑って暮らせる世にしたい。それだけなのだ」

 忠勝の殺気が、ふっと削がれた。家康もまた、毒気を抜かれたように目を見開く。

(……これだ。この『絶対的な善性』こそが、論理ロジックの通じない最強の交渉カードだ。殿のこの一言は、どんな利益誘導インセンティブよりも家康の胸に刺さったはず)

 家康は嘆息し、膝を打った。

「……氏治殿。貴殿のような御仁は、乱世には生き残れぬと思うておった。だが、その愚直なまでの優しさを守るために、この浪紫殿のような怪物が牙を研いでおるのだな」

 家康は浪紫に向き直り、静かに告げた。

「認めよう。我が三河は、小田軍の通過を許す。……ただし、織田殿への義理も欠くわけにはいかぬ。形式上、我らは城に籠もり、戦う意志なきことを示す。貴殿らは、その間隙かんげきを縫って西へ急げ」

 実質的な降伏、あるいは「不戦」の約束であった。

「感謝いたします、徳川殿。……では、この『隠れ同盟サイレント・パートナーシップ』の証として、三河・遠江の流通管理権を共同で運用することにいたしましょう」

 浪紫は、用意していた別の書面を差し出した。それは徳川家の面目を保ちつつ、小田の経済圏に三河を組み込むための、詳細な共同事業計画スキームであった。

(……よし。これでバックドア(裏口)は確保した。徳川を中立化バッファとして置くことで、背後の憂いは完全に消えた。次は、いよいよ尾張……織田信長の本陣を突く段階だ)

 会談を終え、夕闇の天竜川を渡る帰り道。

「浪紫、うまくいったな!」と喜ぶ氏治の影で、浪紫は西の空を見上げた。

 そこには、巨大な「時代の壁」である織田家が、火の色をして待ち構えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ