第四十一話:不戦の誓約(ふせんのせいやく)
長い沈黙が、会談所の畳を重く押さえつけていた。
家康の傍らに控える本多忠勝が、腰の「蜻蛉切」の柄に手をかけ、殺気を放つ。だが、浪紫は微動だにせず、ただ家康の瞳を真っ直ぐに見つめ返していた。
その時、それまで静かに茶を啜っていた小田氏治が、ふわりと口を開いた。
「家康殿、私は難しいことは分からぬが……。貴殿の家臣たちが、私の出した干し菓子を『旨い、旨い』と食べておるのを見た。……それで良いのではないか?」
氏治は屈託のない笑みを浮かべた。
「皆、腹が減っては戦もできぬし、旨いものを食えば自然と笑みがこぼれる。私は、三河の民も、我ら小田の民も、同じように笑って暮らせる世にしたい。それだけなのだ」
忠勝の殺気が、ふっと削がれた。家康もまた、毒気を抜かれたように目を見開く。
(……これだ。この『絶対的な善性』こそが、論理の通じない最強の交渉カードだ。殿のこの一言は、どんな利益誘導よりも家康の胸に刺さったはず)
家康は嘆息し、膝を打った。
「……氏治殿。貴殿のような御仁は、乱世には生き残れぬと思うておった。だが、その愚直なまでの優しさを守るために、この浪紫殿のような怪物が牙を研いでおるのだな」
家康は浪紫に向き直り、静かに告げた。
「認めよう。我が三河は、小田軍の通過を許す。……ただし、織田殿への義理も欠くわけにはいかぬ。形式上、我らは城に籠もり、戦う意志なきことを示す。貴殿らは、その間隙を縫って西へ急げ」
実質的な降伏、あるいは「不戦」の約束であった。
「感謝いたします、徳川殿。……では、この『隠れ同盟』の証として、三河・遠江の流通管理権を共同で運用することにいたしましょう」
浪紫は、用意していた別の書面を差し出した。それは徳川家の面目を保ちつつ、小田の経済圏に三河を組み込むための、詳細な共同事業計画であった。
(……よし。これでバックドア(裏口)は確保した。徳川を中立化として置くことで、背後の憂いは完全に消えた。次は、いよいよ尾張……織田信長の本陣を突く段階だ)
会談を終え、夕闇の天竜川を渡る帰り道。
「浪紫、うまくいったな!」と喜ぶ氏治の影で、浪紫は西の空を見上げた。
そこには、巨大な「時代の壁」である織田家が、火の色をして待ち構えていた。




