第四十話:浜松の静寂(せいじゃく)
天竜川を挟んだ対岸、中州に設けられた仮設の会談所。
周囲は厳重に警護されているが、浪紫の指示により小田軍の兵たちは武器を収め、にこやかに三河兵へ「小田名物の干し菓子」を勧めるという、奇妙なほど穏やかな光景が広がっていた。
「……食えぬ男よ。いや、食わせる男と言うべきか」
源鉄斎が、向こう岸の徳川陣営を眺めながら低く呟いた。
「源鉄斎殿、これより行われるのは『査定』にございます。我らが徳川殿に、どれだけの価値を見出しているか……それを示す場です」
浪紫は眼鏡を拭い、隣に座る小田氏治を見た。
「殿、今日は何も無理をなさる必要はございません。ただ、家康殿と『これからの世の安寧』について、いつも通りお話しください」
「うむ。家康殿とは一度ゆっくり話してみたいと思っていたのだ。怖い人だと聞くが、民を思う心は同じはずだからな」
氏治は緊張しつつも、どこか楽しげに頷いた。
やがて、質実剛健を絵に描いたような武者たちを連れ、一人の男が現れた。
徳川家康である。その眼光は鋭く、全身から「不退転」の気迫が滲み出ている。
対座した家康は、深々と頭を下げる氏治をじっと見つめ、次にその傍らに控える浪紫へ視線を移した。
「……浪紫殿、とお見受けする。貴殿の噂は浜松まで嫌というほど届いておる。三河の塩の値を下げ、民に『将軍の慈悲』を説き……我が家臣たちの心を、戦わずして乱してくれたな」
家康の言葉には、確かな棘があった。
浪紫は静かに微笑みを返す。
「滅相もございません。私はただ、物流の最適化を行い、殿の慈悲を形にしたまでにございます。徳川殿、我らは貴殿と血を流し合うつもりは毛頭ございません」
「信長殿との同盟を破れと申すか? 三河武士に『不義』を働けと?」
家康の問いに、浪紫は懐から足利義昭の密書を取り出し、そっと畳の上に置いた。
「『義』の所在が、織田殿から将軍家へと移った……。ただそれだけのことにございます。徳川殿、貴殿が守るべきは『織田家との約束』ですか? それとも『三河の民の未来』ですか?」
(……さて、家康。あんたは将来の損失を最小化するために、今のプライドを捨てられるか。ここでサンクコスト(注ぎ込んだ犠牲)に囚われれば、三河は経済的に干上がるぞ)
静寂が会談所を包み込む。川のせせらぎだけが、張り詰めた空気の中を流れていった。




