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第三十八話:不退転の門番

小田軍が西へ向かうには、東海道の要衝である三河・遠江を通り抜けねばならない。そこを守るのは、織田信長と固い同盟を結ぶ「三河武士」の主、徳川家康である。

 浪紫はしは軍議の席で、三河周辺の地図を広げた。

「徳川家……。ここは一筋縄ではいきません。彼らの強さは武田のような戦術の妙ではなく、組織の『備え』の厚さと、主君への異常なまでの忠誠心にあります」

 源鉄斎げんてっさいが腕を組み、地図を凝視する。

「確かに。三河者は一度門を閉じれば、最後の一兵まで戦い抜くしつこさがある。義昭公の密書を見せたところで、『織田殿との信義が先』と一蹴されるのが関の山よ」

「左様。ですから、まともに正面からぶつかるのは理にかないません。……殿」

 浪紫は、不安げに皆のやり取りを見ていた氏治うじはるに向き直った。

「徳川殿は、殿と同じく、領民や家臣を慈しむお方です。……そこで、戦わずして彼らの『義』を動かします」

(……徳川家康。危機管理リスクマネジメントの天才。だが、守るべきものが多すぎる組織は、その『守備範囲』こそが弱点になる)

 浪紫が命じたのは、武力による侵攻ではなかった。

 三河へ向かう街道沿いに、突如として巨大な「救済所」と「商いの場」を開設させたのだ。さらに、小田領で精製された安価で良質な塩と薬を、徳川領内の寺社や有力者に「将軍家からの贈り物」として配り始めた。

「浪紫、これは……。攻めているというより、施しをしているようではないか」

 氏治が不思議そうに尋ねる。

「殿、これはいわば『先に利を与えて心を縛る』策にございます。まずは小田の恩恵を三河の民に浸透させる。徳川殿が我らを拒めば、それは家臣や民から『救いの手を拒んだ主君』と見なされることになります」

(……まずは無料体験フリーミアムで依存させてから、選択を迫る。徳川殿が拒絶すればするほど、彼の中の『義』と『民の期待』に解離ギャップが生じるはずだ)

 同時に、浪紫は隠密組織を使い、浜松城下へある噂を流布させた。

『織田は将軍を蔑ろにしているが、小田は将軍を奉じ、民に福をもたらす。真の義はどちらにあるか』

 数日後、徳川方の先鋒・酒井忠次さかいただつぐから、困惑と警戒の入り混じった使者が小田の本陣へと届けられた。

 浪紫は眼鏡を指で押し上げ、静かに微笑んだ。

「……さあ、徳川殿。あなたの『義』の重さ、計らせてもらいましょうか」

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