第三十七話:義の不在、不義の書
武田家を呑み込み、東国を平定した小田軍の威容は、もはや天下を動かす巨大なうねりとなっていた。だが、その巨大すぎる力は、主君・小田氏治の心に迷いを生じさせていた。
秋の夜長、甲府の陣所にて、氏治は月を仰ぎながら浪紫に漏らした。
「浪紫よ。里見も佐竹も、そしてあの武田までもが我らの一部となった。だが……ここから先、西へ向かうのは話が違うのではないか」
氏治の顔には、かつての「お人好し」な平穏を望む色が浮かんでいる。
「織田殿は将軍家を奉じ、天下を鎮めておられる。そこへ攻め入るは、逆賊の汚名を着ることにならぬか。私は、ただ皆と仲良く暮らせれば、それで……」
浪紫は、静かに氏治の傍らに膝をついた。
「殿、お言葉ながら。平穏を保つためにこそ、不確定要素を排除せねばなりませぬ。ですが、殿が『大義』を重んじられるお気持ち、痛み入ります」
(……マインドセットがまだ地方大名のままだ。天下統一という大規模合併には、強力な『旗印』という名の広報(PR)戦略が不可欠か)
そこへ、軍師・天羽源鉄斎が慌ただしく入室してきた。その手には、厳重に封じられた一通の密書がある。
「殿、浪紫殿! 京より、火急の書状が届きました。差出人は……現将軍、足利義昭公にございます」
浪紫の眼鏡が、行灯の光を鋭く反射した。
「将軍家から、直接……?」
書状には、織田信長の非道を訴え、小田氏治に対し「信長を討ち、幕府を再興せよ」との過激な文言が並んでいた。信長の庇護下にあるはずの将軍からの、公然たる反旗であった。
天羽源鉄斎は苦り切った顔で浪紫を見た。
「これは毒入りの饅頭のようなもの。信長を討てば、今度は我らが将軍に振り回されることになりかねん。浪紫殿、どう動く」
浪紫は密書を広げ、その内容を「情報資産」として脳内で処理していく。
「……いいえ、源鉄斎殿。これは絶好の『免状』です。殿、これで決まりました。我らは逆賊ではありません。将軍の求めに応じ、天下の静謐を取り戻す『義軍』として西へ進むのです」
氏治は将軍の名に驚きつつも、どこか安堵したように頷いた。
「そうか……義昭公がお困りなら、助けねばならぬな」
浪紫は立ち上がり、西の空を見据えた。
「目標は京。ですが、その最短ルート上に、避けては通れない『不退転の門番』がおります」
「三河の、徳川家康か」
天羽源鉄斎の言葉に、浪紫は深く頷いた。




