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第三十二話:義昭の密書、逆風の関東

甲斐かいの山々に、悲痛な読経の声が響いた。

 小田軍の空爆で負った傷が悪化し、戦国最強の虎・武田信玄はついに没したのである。跡を継いだ勝頼かつよりは、偉大すぎる父の死を伏せつつも、小田への復讐心に燃え、軍備の再編を急いでいた。

 この「虎の死」を機に、小田の支配下にあった勢力が一斉に牙を剥く。

 房総ぼうそう里見さとみは、一度は併合を飲みながらも「小田の支配は苛烈かれつなり」と称して蜂起。さらに、常陸の北で再起を伺っていた佐竹さたけが、旧知の結城ゆうきの残党と結託し、失った領土の奪還を目指して南下を始めた。

(……やはり、信長が糸を引いているな。連中を煽って、こちらの戦力を分散させるつもりか。盤面をかき回すのが実に上手い)

 小田城の本陣で、浪紫はしは冷静に戦況図を眺めていた。そこへ、京より使いの者が到着する。浪紫はその使いが携えた書状の紋を目にし、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。

(……予定通りだ。信長と将軍の仲はもはや修復不可能。そろそろ来る頃だと思っていたが、これこそが歴史の濁流というやつか)

 浪紫は、主君・氏治うじはるの元へ向かうと、未開封の書状を恭しく差し出した。

「氏治様、京より、室町公(足利義昭)の使いが参りました。直々の御内書ごないしょにございます」

 氏治は緊張した面持ちで封を切り、その中身に目を落とした。読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていく。

「……浪紫、これは……。信長公を討てとの、将軍家よりの命ではないか! このような大それたこと、今の小田に務まるはずが……」

 驚きうろたえる氏治に対し、浪紫は静かに、だが揺るぎない口調で言った。

「氏治様、恐れることはございませぬ。この時期に、この常陸の地へこのような書状が届くことこそ、まさに天命。天が、氏治様に乱世を終わらせる旗頭はたがしらとなれと命じているのでございます」

「天命、だと……?」

「左様。上洛への大義名分は、向こうから飛び込んでまいりました。あとは、進むだけでございます。ですが、背後に里見や佐竹、そして勝頼を抱えたままでは、上洛に全力を注ぐことは叶いませぬ」

 浪紫は厳しい表情で言葉を継いだ。

「まずは、この関東の包囲網を打ち砕き、根こそぎ掃除をいたしましょう。里見、佐竹、結城……逆らうことがいかに無意味であるか、新たな火器の威力を持って、その身に刻んでやるのです」

(……まずは後方のバグを取り除く。勝頼が動く前に、里見と佐竹を完全に消去デリートする。効率的に片付けさせてもらうぞ)

 将軍よりの命を旗印に、小田軍はついに「官軍」としての道を歩み出す。

 浪紫の無慈悲なる掃討戦が、今、幕を開けようとしていた。

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