第三十一話:出師(すいし)の表、天下の理(ことわり)
武田敗走の報は、関東のみならず日ノ本全土を激震させた。
桶狭間で今川を葬り、徳川との同盟を固めつつも、石山本願寺との泥沼の戦いに身を投じていた尾張の織田信長は、この報せに沈黙したという。
「関東に、虎を凌ぐ化け物が現れたか」
各地の諸大名が、ある者は恐怖し、ある者は利用を画策し、固唾を飲んで小田の動向を見守っていた。
そんな喧騒を余所に、常陸・小田城の奥深く。
武田戦の傷が癒えぬ浪紫は、主君・氏治と二人きりで向き合っていた。浪紫の手元には、数枚の書状が置かれている。それは浪紫がこれまでの歩みと、これから歩むべき地獄を記した、実質的な**「出師の表」**であった。
「氏治様。……この戦いで、私は確信いたしました。もはや、この常陸一国だけを平和に保つことは不可能にございます」
浪紫の言葉は重い。氏治は、あの武田戦の夜、浪紫が見せた震える指先を思い出し、じっと耳を傾けた。
「我らが武田を退けたことで、世の秩序は壊れました。信長、家康、そして本願寺……。彼らは今、我らを『次なる標的』として見ております。放置すれば、彼らは包囲網を敷き、総力でこの地を焼き払いに来るでしょう」
浪紫は眼鏡を外し、真正面から氏治の瞳を見つめた。
「逃げる道は、ございません。領民を、この穏やかな地を本当に守り抜く唯一の道は……我らがこの日ノ本すべての理を書き換えること。すなわち、天下を統一し、争いそのものを無効化する新しき世を創る以外にございませぬ」
氏治の顔に迷いが生じる。
「天下……。私がか? 浪紫、私はただ、先祖伝来のこの地で、皆と笑って暮らしたかっただけなのだ。天下人などという大それた器ではないことは、お前が一番よく知っているはずだ」
浪紫は静かに首を振った。
「左様。殿は、欲がない。だからこそ、天下を取らねばならぬのです。信長のような苛烈な覇道ではなく、誰もが腹を満たし、仕組みによって守られる王道。それを成せるのは、情に厚い氏治様、貴方様しかおりませぬ。私はそのための『非情な剣』となり、泥を被り、地獄を歩みましょう」
浪紫は、畳に深く額を突いた。
「氏治様、どうか。この浪紫に、日ノ本の膿を出し切る許可を。……この一歩は、これまで以上に多くの血を流すことになりましょう。ですが、その先にしか、殿の望む真の安寧はございませぬ」
長い沈黙が流れた。
やがて、氏治はゆっくりと立ち上がり、浪紫の肩を叩いた。その手は、武田戦の時と同じく温かかった。
「……浪紫。お前を地獄へ一人で行かせるわけにはいかぬな。わかった。お前の描く『新しき世』、私に見せてくれ。その責め苦、私も共に背負おう」
浪紫が顔を上げると、そこにはいつものお人好しな氏治ではなく、一国の主としての、そして天下を望む者としての覚悟を宿した男の顔があった。
小田家、ついに西進。
経営コンサルタントとしての知識と、戦国を生き抜く執念。そのすべてを懸けた、浪紫の「天下再構築」が、ここから動き出す。




