第三十話:虎を待つ、鉄の檻(後編)
轟音と共に、武田の本陣幕が火柱に包まれた。だが、黒煙を切り裂いて現れたのは、軍配を振るい、泰然と構える信玄であった。
「……空の火に目を奪われるな! すでに勝機は我が掌中にあり!」
信玄の叫びに、揺らいだ武田軍が再び団結を取り戻す。山県昌景らの先鋒が正面で激しく小田・北条連合軍を釘付けにする中、小田軍の背後――険しい山を越えた真田昌幸の別働隊が、牙を剥いて出現した。
「浪紫、背後から真田が! 挟み撃ちだ!」
氏治が声を裏返らせる。
「くっ! ……さすが信玄、読み切っていたか……!」
不意を突かれた浪紫は、冷汗を拭う間もなく、本陣を囲む最終防衛線に据え付けられた連射式大筒のハンドルへ飛びついた。
「おのれ……これ以上、好きにはさせんッ!」
バラバラバラバラッ!!
本陣を襲わんとする真田の兵たちが、至近距離から放たれる圧倒的な弾丸の雨になぎ倒されていく。その凄まじい咆哮は、まさに浪紫の焦燥と意地そのものであった。
その混乱の最中、浪紫は同時に「空」へ最後の手札を投じていた。
複数の大凧から切り離された推進薬付き爆弾が、煙幕の向こう側――動かぬ信玄の座所へと、一点に集中して降り注いだのである。
ドォォォォン!!
真田の挟撃という絶体絶命の瞬間こそが、信玄が勝利を確信し、最も隙を見せる瞬間でもあった。空からの死神が、ついにその牙を虎の首筋に届かせる。激しい爆発が信玄を飲み込み、その体は爆風によって馬から投げ出された。
「御館様ッ!!」
傍らにいた山本勘助が叫び、崩れ落ちる信玄を抱きかかえる。
信玄は吐血し、薄れゆく意識の中で、空から降り注ぐ理不尽な火と、本陣を守る異形の筒の音を聞いた。
「……見事よ、軍師……。これほどまでの……」
総大将の重傷を知った武田軍は、一転して撤退を開始した。真田も、大筒の威力に戦慄しつつ殿を務め、甲斐へと虎を運び去っていく。
静まり返った戦場に、ただ連射式大筒から立ち昇る硝煙の臭いだけが漂っていた。
浪紫は、熱を帯びたハンドルの上に両手を置いたまま、石のように動かない。いや、動けないのだ。
その指は、まるでハンドルと一体化したかのように白く強張り、激しく震えていた。
レンズ越しに見えるのは、自分がハンドルを回すたびに崩れ落ち、物言わぬ肉塊となった兵たちの姿。かつての世界で、経営資料の「指標」や「効率」として冷徹に処理していた数字ではない。自らの腕の動きに連動して奪われた、取り返しのつかない命の終焉がそこにあった。
「浪紫……。もうよい、もうよいのだ」
背後から、氏治の穏やかな、だが震える声が聞こえた。
氏治は浪紫の横に立つと、ハンドルを掴んで離さないその指を、一本、また一本と、自らの手で優しく解きほぐしていった。
最後の一本がハンドルから離れた途端、浪紫の膝から力が抜けた。
泥まみれの地面にへたり込み、荒い呼吸を繰り返す。眼鏡がずれ、その奥にある瞳には、一人の人間としての「脆さ」が滲んでいた。
「……致命傷のはずだ……。これで、当分……虎は、動けない……」
震える声でそれだけを絞り出すと、浪紫は自分の両手を見つめた。
戦国最強を退けたのは、冷徹な経営理論ではなく、血を吐くようなこの震えの結果であった。
氏治は、泥に汚れた浪紫の肩にそっと手を置く。
小田家は、一人の男の血の通った苦悩と引き換えに、ついに西への扉をこじ開けたのである。




