第二十六話:獅子の懇願、軍師の罠
結城・江戸を併合したとはいえ、小田軍の総兵力はようやく一万に届く程度。対する相模の北条は、動員力五万を誇る関東の巨人である。
浪紫は、真正面から北条を屈服させることは不可能だと断じていた。
(……ハードウェアの差(兵力差)が五倍。まともに戦えば、こちらの処理能力が追いつく前に物量でクラッシュする。ならば、外部からバグを仕込んで、内部からリソースを食い潰させるまでだ)
浪紫が密かに接触したのは、房総の里見氏、そして信濃の「表裏比興の者」、真田であった。
「里見殿には、北条に奪われた領土を取り戻す好機であると説き、真田殿には、北条を揺さぶれば上野での利権を保証すると囁く。……彼らが動けば、北条は二正面作戦を強いられます」
浪紫の狙い通り、里見と真田が北条領を侵食し始めた。氏康は東西に兵を分けざるを得ず、その精強な五万の軍勢は各地に分散し、次第に疲弊していく。
そこへ、浪紫は氏治の名で一通の書状を小田原へ送った。
『長年の隣誼に鑑み、北条の危機に小田は援軍を差し向ける』
「氏治様、これは『助太刀』ではございません。北条が弱ったところへ乗り込み、彼らが守りきれぬ要所を、我らが『守護』の名目で占拠するための一歩にございます」
氏治は戸惑いながらも、浪紫の「これこそが関東の平穏を早める道だ」という熱弁に、ついに出陣の決断を下す。
小田軍一万は、北条の援護という名目で堂々と武蔵へと進軍。混乱する北条軍の隙を突き、街道の要衝や支城を次々と「保護」という形で手中に収めていった。
さらに、浪紫は動く。
北条領内で暴れる里見と真田に対し、小田の新兵器――大筒と大凧を用いた空爆を叩き込んだのである。
北条が手を焼いていた両軍を、小田が鮮やかに撃破する。その光景は、北条から見れば「救世主」の如き姿であったが、実態は違った。里見と真田の残存兵力をも小田の軍門に降らせ、自軍の血肉へと変えていったのだ。
里見と真田を裏で操り、北条の力を分散・疲弊させた浪紫は、一転して「潔い撤退」を開始した。
「里見も真田も追い払いました。これにて援護の役目は終わりです。北条殿、占拠していた城はお返しいたします」
武蔵の要所を次々と引き払う小田軍。それを見た北条氏康は、安堵の胸をなでおろした。
「……あの軍師、意外にも無欲であったか。このまま居座られるかと案じたが、取り越し苦労であったな」
だが、その安堵はわずか半日で「凍りつくような絶望」へと変わった。北条の物見が、血相を変えて小田原城へ駆け込んできたのである。
「殿! 報告にございます! 越後の上杉、さらに甲斐の武田が、疲弊した我が領を食らわんと国境に兵を集めております! その数、合わせて三万以上!」
氏康は戦慄した。今、両巨頭に攻められれば北条は滅びる。しかしこれは、浪紫が周到に流した「虚報」であった。
そこへ、悠々と常陸へ帰ろうとする小田軍のしんがりに、北条の使者が必死の形相で追いついた。
「待たれよ、浪紫殿! せめて、せめてあと数月、武蔵に留まってはくれぬか!」
浪紫は馬を止め、困ったように眉を下げて見せた。
「……困りましたな。我が方も領地をいつまでも空にはできませぬ。上杉や武田を相手にするとなれば、相応の覚悟と軍資金も必要。ただの援軍では、家臣たちも納得いたしますまい」
去ろうとする浪紫に、北条側はなりふり構わず縋った。
「ならば同盟を! 対等の、いや、小田殿を上座とする同盟でも構わぬ!」
北条家中では「名門の誇りを捨てるのか」と激しい議論が巻き起こった。しかし、その議論の最中、小田軍は「防衛の準備」という名目で、あの大筒や大凧、さらには見たこともない新兵器を次々と北条領内へ運び込んでいく。
その兵器が、かつて自分たちが手を焼いていた里見や千葉の軍勢を、一瞬で「塵」に変えたという報告が氏康に届く。
「……抗えば武田と上杉に食われ、拒めばこの『得体の知れぬ化け物』が城内で暴れ出すというのか」
氏康は、膝をついた。
「……承知した。条件を呑もう。北条は小田の差配に従う。……頼む、見捨てないでくれ」
浪紫の口角が、わずかに吊り上がった。
関東の覇者・北条を、自らの口から「屈服」と言わせずに、懇願させて軍門に降らせた瞬間であった。




