第二十二話:支配の対価(たいか)
静寂が「龍の喉」を支配していた。
五百の火縄が放つ火薬の匂いと、五百の弓隊が引き絞る弦の軋み。その中心で、佐竹義昭はただ立ち尽くしていた。
「……撃たぬのか」
義昭の声は、掠れていた。もはや、ここから逃れる術がないことは、策士である彼自身が一番よく理解している。
浪紫は眼鏡を指で押し上げ、ゆっくりと高台から崖下を見下ろした。
「佐竹殿。我らは貴殿の命を奪いに来たのではありません。……貴殿の『力』を買いに来たのです」
「……何だと?」
「今ここで五千の精鋭を失えば、北の伊達や宇都宮が黙ってはおりますまい。佐竹が消えた空白を狙い、常陸は再び血の海に沈みます。それは、我ら小田にとっても不利益でしかない」
浪紫の言葉は、慈悲ではなく、どこまでも数字に裏打ちされた合理であった。
「条件は三つ。一つ、佐竹は小田が整備した街道の『守護』となり、物流の安全を保障すること。二つ、佐竹領内の市場を『楽市』とし、我らの商圏に加えること。そして三つ――」
浪紫は一拍置き、氏治の顔を立てるように一歩下がった。氏治が、力強く言葉を継ぐ。
「三つ、佐竹家は今後、小田と不可侵の誓約を結び、共に常陸の平定に当たる。……義昭殿、私は貴殿と殺し合いたいのではない。この豊かな常陸を、共に守りたいのだ」
義昭は、氏治の真っ直ぐな瞳と、その背後に控える浪紫の冷徹な知略を交互に見た。
自らの知略が通じぬ相手に、命を救われ、さらには共存の道を提示される。それは武士としての死よりも重い、屈辱を伴う救済であった。
「……負けた。……完膚なきまでにな」
義昭は力なく刀を鞘に収め、その場に膝を突いた。
(……よし、交渉妥結だ。佐竹という最強のユニットを、小田を中心とした『ネットワーク』の防衛ノードとして再利用する。これで北側の壁は、むしろ前より強固になったな)
浪紫は、懐中時計の蓋を閉じ、ようやく一つ、大きなため息を吐いた。
常陸の覇権争いは、最悪の流血を回避し、一つの「巨大な経済・軍事同盟」の誕生へと舵を切ったのである。




