第十六話:波紋(はもん)と基盤(きばん)
上杉輝虎が軍を返し、常陸に静寂が戻った。
だが、それは単なる平穏ではない。嵐が過ぎ去った後に残されたのは、「軍神を戦わずして退けた小田」という、周辺諸国を震撼させる巨大な事実であった。
「……信じられん。あの輝虎が、一度も刀を振るわず越後へ帰っただと?」
佐竹や北条の領内では、間諜が持ち帰った報せに、重臣たちが色めき立っていた。彼らが最も恐れたのは、小田の武力ではない。軍神の心を動かした、正体不明の「知略」の正体であった。
その頃、小田城内。
浪紫は、勝利の余韻に浸る暇もなく、源鉄斎や菅谷勝貞を前に、新たな図面を広げていた。
「上杉殿を追い返したのは、あくまで一時の猶予に過ぎません。……皆々様、今こそ戦の備えではなく、国の『造作』に総力を挙げねばなりませぬ」
浪紫は努めて、当時の武士たちが理解しやすい言葉を選んで語りかけた。だが、誰も見ていないところで眼鏡を指で押し上げ、小さく呟く。
(……よし。ヘイト管理は完璧だ。ここからは一気にインフラのビルドに入るぞ)
「造作だと? 浪紫殿、次は城を築くのか」
勝貞の問いに、浪紫は首を横に振った。
「いいえ。次に築くのは『道』と『市』にございます。小田城下から四方へ伸びる街道を、これまでにない頑強なものへと作り変えます」
浪紫は、最新の土木知見を用いた排水設備を設け、さらに一定の間隔で「常陸の薬水」の補給所兼、宿泊施設を建設する案を提示した。
「ただの道ではございません。この道を通れば、他国の商人も安全かつ迅速に移動でき、疲れも癒えましょう。そうなれば、我が国の薬水は飛ぶように売れ、小田には莫大な通行税と、諸国の噂話が集まるようになります。……道そのものを、国の『脈動』とするのです」
浪紫の口から出る言葉は理にかない、武士たちにもその利が鮮明に伝わった。
彼の狙いは、近隣が「次はどこを攻めるか」と頭を悩ませている間に、小田を関東一の流通の拠点に作り変え、経済的に他国が手を出せない状況を構築することにある。
(……小田を潰せば自分の国も干上がる。そういうパッシブな防衛線を張るのが、序盤のセオリーだからな)
ふとした瞬間に漏れる、誰にも理解できぬ独り言。
「……浪紫殿。お主の言う通りに動けば、小田は戦わずして、近隣を膝下に置くことになるのではないか?」
鉄斎が、畏怖の念を込めて呟いた。
「膝下に置く必要などございません。彼らが『小田がいなければ困る』と思ってくれれば、それで……」
浪紫は言いかけて、ふっと笑みを浮かべた。
「……万事、片付きます」
浪紫の視線は、既に常陸の国境を越え、関東全域を網羅する商圏の構築へと向かっていた。それは確実な「地固め」のための、最も静かなる戦であった。




