十五話:軍神(ぐんしん)との対面(たいめん)
上杉輝虎の放つ圧が、広間の空気を歪ませていた。
北条を討つという「義」に燃える軍神を前に、浪紫は静かに、だが確信を持って言葉を紡ぎ出した。
「輝虎様。此度の北条討伐……誠に、その先に『義』はございますか?」
「何だと?」
輝虎の眼光が一段と鋭くなる。不敬を承知で、浪紫は続けた。
「今、輝虎様が関東で北条と血を流されている間に、西の『織田』や『武田』、そして三河の『徳川』らが、驚くべき速さで内情を整え、力を蓄えていることをご存知でしょうか。彼らは古い戦法を捨て、大量の火縄を揃え、兵農を分離し、虎視眈々(こしたんたん)と背後を狙っております」
浪紫は、他国の間諜ですら知り得ないほど詳細な、西国の兵力数や経済動向を次々と「予測」として口にした。現代の歴史知識、すなわち浪紫にとっての「ゲームのデータ」である。
「輝虎様が北条を滅ぼし、関東に空白が生じれば、その隙を突いて彼らが雪崩込みます。そうなれば関東は、今以上の永きにわたる戦乱の地となりましょう。……真に義を貫かれるのであれば、今は北条を叩く時ではなく、越後の守りを固め、西への備えを万全になさるのが上策。北条は、上杉様が背後を気にせず西へ目を向けるための『防波堤』として生かしておくべきなのです」
輝虎は言葉を失った。浪紫が語る西国の情勢は、あまりに具体的で、未来を見通しているかのような説得力を持っていた。「……お主、なぜそこまで他国の内情を詳らかに知る。まるで、天から盤面を覗いているようだな。単なる予測ではあるまい」
上杉輝虎の眼光は、浪紫の嘘を許さぬほど鋭く刺さっていた。
浪紫は一瞬の沈黙の後、眼鏡を指で押し上げ、静かだが確信に満ちた声で答えた。
「――予測ではございません、輝虎様。我ら小田には、風の音一つ、商人の噂一つから他国の内情を詳らかにする術がございます。これは西国のみならず、我らに誼を寄せるあらゆる地の、いわば『理』を読み解くようなもの……」
浪紫はそれ以上は語らず、ただ真っ直ぐに輝虎を見つめ返した。多くを語らずとも、「我らは越後のことも察している」という無言の圧力が、広間の空気をさらに重く沈ませる。
「……此度の北条討伐が、輝虎様の背後をどれほど危うくするか。それは確定した未来にございます。我らとの友好を保たれるか、それともこの情報の刃を向けられる側になるか。軍神と謳われる貴方様ならば、どちらが理に適うか、お分かりのはず」
輝虎は浪紫を凝視したまま動かなかったが、やがて喉の奥で低く笑った。
「面白い。刀ではなく、言葉で余を翻弄するか。……氏治殿、お主の軍師、誠に不敵よな。相分かった。北条を討ち、関東を更なる混沌に陥れるのは得策ではないと、余の直感も告げている」
輝虎は立ち上がり、氏治に対して一礼をすると、そのまま堂々とした足取りで広間を去った。
(……ふぅ。……危うく『詰み(チェックメイト)』かと思った。他国の情報を握っているとハッタリをかます……いや、ログを解析するように事実を突きつけるのが、唯一の生存ルートだったな)
激昂に近い緊張から解放された浪紫の背中は、汗でびっしょりと濡れていた。
同刻、小田の地を離れ、帰途に就く越後勢。
馬上の輝虎は、傍らに控える老将・宇佐美定行に、ふと漏らした。
「定行よ。あの浪紫という男……底知れぬ『目』を持っておった。あれはただの策士ではない。……ヤツとはこれからも、奇しき縁で繋がることになる、そんな気がしてならぬ」
「……御意。小田、侮れぬ国になり申したな」
軍神という嵐は、反転(Uターン)を開始した。
上杉という巨大な脅威をやり過ごした小田家。浪紫の足場固め(ビルド)は、今、確かな一歩を踏み出した。




