第十四話:神なき饗応(きょうおう)——「神話」の終焉(しゅうえん)
上杉輝虎率いる越後の軍勢は、常陸の小田領に入った瞬間、奇妙な光景に足を止めた。
そこには防塁もなければ、立ち並ぶ兵の姿もない。代わりに、街道の要所に設えられたのは、鮮やかな朱塗りの柱が目を引く巨大な「茶屋」の群れであった。
「……何事だ、これは。小田は戦を捨てたか」
輝虎が眉をひそめる。
茶屋からは、老草の根を精製した常陸特産の滋養強壮剤――「常陸の薬水」の芳しい香りが漂っていた。
そこへ、兜を脱ぎ、丸腰の菅谷勝貞が一人、静かに歩み寄った。
「小田家当主・氏治が代わり、上杉殿にお伝えいたします。越後よりの長い旅路、さぞやお疲れのこと。まずは我が国にしか存在せぬこの『薬水』を、全将兵の皆様へ献上いたしたく。これぞ、小田の精一杯の『義』にございます」
浪紫の指示により、茶屋の者たちは声高に宣伝を始めた。
「さあ、これぞ小田城下でしか手に入らぬ秘伝の薬水! 一口飲めば足取りは軽くなり、三日三晩の行軍も厭わぬ力が湧く! 越後の皆様、この効き目、しかと体感なされよ!」
半信半疑で薬水を口にした越後の将兵たちの間で、瞬く間にどよめきが広がった。
「……おお、重かった脚が、まるで羽が生えたように軽い!」
「昨夜からの疲れが、霧が晴れるように消えていくぞ。これは真に、常陸にしかない宝か!」
行軍の疲労を劇的に癒やす実感を伴った「口コミ」は、三千の軍勢をあっという間に席巻した。彼らの心から殺気が削ぎ落とされ、代わりに「この薬水は、小田を攻めて滅ぼしてしまえば、二度と手に入らなくなるのではないか」という不安と、小田の技術への畏敬が芽生え始めたのだ。
「……一口にて心身を調えるとは。薬一つにこれほどの理を込めるとは、小田の軍師……ただの策士ではなさそうだ……」
輝虎の呟きを、風に乗って耳にしたかのように、城壁の陰で浪紫は小さく口角を上げた。
傍らに控える源鉄斎が、不思議そうに問いかける。
「浪紫殿、お主が先刻言っていた『神話を捨てる』とは、このことか?」
「ええ。戦国における戦とは、互いの武勇や家柄という『神話』をぶつけ合う儀式のようなものです。特に上杉殿は、自らを毘沙門天の化身と称し、義という神話の中に生きている。そこにまともな理屈で挑んでも、神話の力に押し潰されるだけです」
浪紫は眼鏡を指で押し上げ、冷徹な光をレンズの奥に宿らせた。
「だから私は、その神話を捨てました。武士の誇りや神仏の加護ではなく、もっと下世話で、もっと抗いがたいもの……すなわち『肉体の快楽』と『実利』という現実を叩きつけたのです」
どれほど高潔な「義」を掲げる将兵であっても、目の前で疲れが吹き飛び、活力が湧くという圧倒的な「体験」には抗えない。
浪紫が捨てたのは「武士同士の形式美」という名の神話であり、代わりに取り出したのは、現代的な「依存」と「需要」という経済の武器であった。
「神を崇めるより、この薬水を一口飲む方が、よほど体が動く。……兵たちがそう実感した瞬間、上杉の神話は、小田の提供する『日常』に負けたのです。これで、彼らはもうこの地を焦土にはできません。薬水の源泉を失うことを、脳が、いや、体が拒絶し始めますから」
独り言のように語る浪紫の横顔に、源鉄斎は背筋が寒くなるような恐ろしさを感じた。刃を交えずして、最強の軍勢の「存在理由」を内側から作り変えてしまったのだ。
輝虎は、空になった杯を見つめ、静かに馬を小田城の門へと向けた。
「……面白い。この薬水の主、直に会ってみたくなった」
軍神という巨大なバグ。それを「接待」という名のシステム修正で手懐けた浪紫は、いよいよ物語の核心――輝虎との直接対談へと足を踏み入れる。
輝虎もまた、差し出された薬水を一気に飲み干した。
体中を駆け巡る劇的な活力に、彼は目を見開いた。




