第十三話:軍神(ぐんしん)の南下(なんか)
上杉輝虎――後の謙信が率いる越後の軍勢が、関東平野にその鋭い牙を向けようとしていた。
北条を討つための大義名分を掲げた南下ではあったが、その途上に位置する小田領の変貌は、輝虎の耳に「不吉な調べ」として届いていた。
「地を這う泥が敵を飲み込み、得体の知れぬ薬水が国を潤すか……。小田氏治、よほどの異形を飼うたと見える」
馬上の輝虎は、冷徹なまでの美しさを湛えた瞳で、常陸の空を見据えていた。
一方、小田城内。
上杉接近の報に、広間は重苦しい沈黙に支配されていた。佐竹を退けた自信は、相手が「上杉」と聞いた瞬間に、霧散しかけていた。
「浪紫殿、相手はあの輝虎だ。泥濘の罠など、あの男の突撃の前には無に等しい。……如何いたす」
源鉄斎の問いに、浪紫は自席でじっと手元の資料を見つめていた。
(……謙信の機動力と士気は、この時代のパラメータを完全に逸脱している。正面から当たれば、どんなに守りを固めても数分で盤面が崩壊するぞ)
浪紫の脳内では、幾百ものシミュレーションが火花を散らしていた。現代の戦術理論、地形データ、そして謙信の心理的傾向。
「……まともに戦ってはいけません。軍神を相手にするなら、こちらは『神話』を捨てるべきです」
浪紫が吐き捨てるように言った。
「神話だと?」
氏治が首を傾げると、浪紫は立ち上がり、新しく完成したばかりの小田領の詳細図を指差した。
「輝虎は『義』を重んじる男です。ならば、その『義』を利用して、戦そのものの定義を書き換えます。源鉄斎殿、薬水の在庫をすべて集めてください。それと、勝貞殿には、城下の商人を総動員して『ある布陣』を敷いてもらいます」
浪紫の口から次々と出される指示は、これまでの合戦の常識からは到底考えられないものばかりであった。
武力ではなく、圧倒的な「もてなし」と「演出」で軍神を迎え撃つ――。
越後の龍が小田の境を越えたその時、彼らが目にしたのは、立ち並ぶ槍の列ではなく、白い煙が立ち上る奇妙な「茶屋」の群れであった。




