第百五話:天下平定(グランドフィナーレ)
肥前の知将・鍋島直茂は、逃走の最中、戦慄し続けていた。
崖を降りれば伏兵がおり、川を渡ろうとすれば上流で堰を切られる。まるで、自らの思考が事前に読み取られ、次の一歩が「正解」から「袋小路」へと書き換えられているかのようだった。
(……この男、浪紫零也には敵わぬ。我らの知略など、あやつが描く巨大な絵図の一筆に過ぎぬのだ)
度重なる罠に翻弄され、誇り高い直茂の心は、もはや恐怖を通り越して畏敬にさえ染まっていた。
命からがら本隊の龍造寺隆信と合流したものの、そこは浪紫が用意した最終的な行き止まりであった。
「おのれ小田の軍師……! 最後に一花咲かせてくれるわ!」
逆上し、抜刀しようとする隆信の腕を、直茂は必死に、かつ力強く制した。
「殿、もう……諦めましょう。我らは剣を交える前に、理によって既に負けておるのです。この御方に抗うことは、天の理に逆らうも同然。これ以上の無駄死には、肥前の民への不忠にございます」
直茂の悲痛な、しかし確信に満ちた言葉に、隆信は力なく膝を突いた。手のひらで転がされていたという残酷な真実を、右腕である直茂に突きつけられ、肥前の熊はついに降伏を受け入れた。
数刻後、陣中にて。
捕縛された島津義弘、龍造寺隆信、そして鍋島直茂。日の本最後に残った英傑たちが、浪紫の前に並んでいた。
「殺せ。島津に二言はない」
義弘が睨みつけるが、浪紫は動じない。彼は日の本の全土が描かれた地図を広げた。
「殺すなど、資源の無駄遣いです。中央の織田も、北の諸将も、既に小田氏治様の描く世の一部となりました。最後に残ったのは、あなた方の力だけです」
浪紫は三人を一人ずつ見据え、その能力が平和な世を維持するために不可欠な要素であることを説いた。島津の武、龍造寺の統率、鍋島の智。それらが小田の法の下に組み合わさることで、真の平和が完成するのだと。
その後、薩摩にて島津義久とも対面した浪紫は、武装解除と平和の理を認めさせ、ついに九州全土の平定を成し遂げた。
その日の夕暮れ。
九州の西端、海に沈む夕陽が戦場を赤く染めていた。
波打ち際に、浪紫、天羽源鉄斎、そして菅谷政貞の三人が立っていた。
「……終わりましたね、源鉄斎殿。これで日の本から、組織的な紛争の火種は消えました」
浪紫が眼鏡を外して潮風に目を細めると、源鉄斎が深く頷いた。
「浪紫殿、ついにやりましたな。貴殿のその奇妙な理がなければ、我らは今も常陸の土を噛んでおったろう。殿が望まれた戦なき世が、今、ここに始まったのだな」
政貞も豪快に笑い、二人の肩を叩いた。
「全くだ! 浪紫殿の図面通りに動くのは骨が折れたが、この景色を見るためならば安いものよ。氏治様も、今頃は小田城で跳びはねて喜んでおられるに違いない」
三人は言葉を交わすのを止め、しばし黄金色に輝く海を見つめた。
戦国最弱と揶揄された小田家が、一人の異端の軍師と共に駆け抜けた果てに辿り着いた、平和という名の新世界。
「さあ、帰りましょう。……これからは、戦よりもずっと難しい『平和の維持』という仕事が待っていますから」
浪紫の独り言は、寄せては返す波の音に溶け、新たな時代の幕開けを告げていた。




