第百三話:誘引の式界(デバッグ・トラップ)
龍造寺の進軍停止――その報告を受けた浪紫零也は、休息を終えたばかりの菅谷政貞を呼び出した。
「政貞殿、敵の斥候が動き出します。鍋島直茂……あの男なら、書状の真偽を確かめるべく、必ず『現場』を見に来るはずです」
浪紫は地図上の一点、切り立った崖と深い泥濘が複雑に入り組んだ「狭間」を指し示した。
「ここを、我々の用意した偽の戦場にします。政貞殿、少数の兵を島津の軍装に着せ替え、小田の輜重隊を襲撃しているように見せかけてください。ただし、深追いはせず、敵の斥候に『島津が小田を追い詰めている』という決定的な光景を焼き付けるのです」
政貞は不敵に笑い、拳を固めた。
「承知いたしました。島津の敗走を装うのではなく、攻勢を装うのですな。浪紫殿の策、相変わらず人の裏をかく」
数刻後。龍造寺の放った精鋭の斥候たちは、浪紫が指定した地点で「目撃」した。
そこでは、島津の旗印を掲げた一団が、混乱する小田軍を一方的に蹂躙していた。さらには上空から、真田信繁の操る熱気球が、小田軍に危急を知らせる信号を送り続けている。
(……龍造寺の斥候は、この『偽の優勢』を主君に持ち帰る。そうなれば、彼らの計算式は書き換わる。島津が勝っているうちに、小田の背後を突いて手柄を横取りしようという誘惑に勝てなくなるはずだ)
浪紫は本陣で、計算機を叩くように状況を整理していた。
「龍造寺軍を、この地形的に不利な狭間へと誘い込む。彼らが『漁夫の利』を得ようと踏み込んだ瞬間、そこは島津の伏兵ではなく、十全に休息を取った我が小田軍の処刑場となる」
独り言と共に、浪紫は眼鏡を冷たく光らせた。
「鍋島直茂。あなたの慎重さは評価しますが、入力データが汚染されていれば、導き出される答えは必ず誤答になる」
龍造寺の大軍が、浪紫の用意した「有利という名の罠」に向けて、ゆっくりと動き出した。




